大都映画

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大都映畫株式會社だいとえいが-、1933年6月 設立 - 1942年1月 合併)は、かつて第二次世界大戦以前に東京・西巣鴨に存在した映画会社である。新興の小企業であったが、低予算娯楽作の大量供給と安価な入場料でメジャーに対抗した。多くの作品は現存していないが、近年、地元巣鴨を中心として、その存在は再評価されている。

略歴・概要

1933年(昭和8年)6月、土木・建築業界の実力者・河合徳三郎がそれまで経営していた河合映画製作社を発展的に拡大、解消して創立した。撮影所は河合映画以来ひきつづき、巣鴨撮影所を稼働させた。同年6月22日公開の吉村操監督の『悲惨の鉄路』を河合映画の最終作として、翌週29日公開、根岸東一郎監督の『新籠の鳥』を大都映画設立第1作として、直営館「河合キネマ」ほかで公開した。

大都映画の製作方針は、完全に娯楽に徹することであった。観客をはらはらさせたり泣かせたりすることに特化し、1年間に100本もの映画を大量生産した。メジャー他社や評論家からは粗製乱造、あるいは内容がないなどと酷評されたが、映画でうさを晴らしたい観衆からは理屈抜きに面白い大都映画は圧倒的に支持された。

ハヤフサヒデト水島道太郎近衛十四郎阿部九州男、あるいは琴糸路といったスターを擁し、チャンバラものの時代劇、新派ふうの悲恋物、現代物の痛快活劇アクション、コメディからなるラインナップで人気を博した。映画料金もメジャー他社より一段安いところが観衆には魅力だった。その分製作は徹底した低コストで、一週間以内に撮影を済ませる早撮りで量産した。

1942年(昭和17年)1月、戦時統合によって、新興キネマおよび日活の製作部門と合併して「大日本映画製作」(戦後の大映、現在の角川映画)となる。このとき大都映画は、その歴史を閉じた。観客の支持と、徹底した低コスト製作もあいまって、最後まで一度も経営危機にはならなかった。

巣鴨撮影所

巣鴨撮影所は、東京府北豊島郡西巣鴨町(現在の東京都豊島区西巣鴨4丁目、西巣鴨交差点の近く)にあった撮影所である。

1919年(大正8年)、「天然色活動写真株式会社」(天活、1914年創立)が開設した。正法院や妙行寺など、寺社の多い巣鴨の地の利を活かしてロケーション撮影を行ない、時代劇などを製作したが、当時は日活(日本活動写真株式会社)が圧倒的に強く、天活の基盤は脆弱であった。1920年(大正9年)には天活は、もと天活創設者だった小林喜三郎(関東の興行師。アメリカの大作映画『イントレランス』の日本興行で成功したのは有名)が日活から脱退した人々と新たに創立した「国際活映」(国活)に買収される形で消滅した。

国活は、この巣鴨撮影所で、新派の俳優を加え現代劇も製作し日活の対抗勢力たろうとしたが、経営が悪化し配給が滞りわずか4年で倒産した。その後巣鴨撮影所は一旦、天活消滅後大阪の撮影所を引き継いで発足していた帝国キネマの撮影所となり、さらに1928年(昭和3年)、前年末に河合徳三郎が発足したB級映画専門会社「河合映画製作社」が手に入れた。

河合映画は徹底した娯楽路線で次々配給先の映画館ネットワークを広げ、1933年(昭和8年)には東亜キネマを吸収合併して「大都映画」となった。

1942年(昭和17年)、大都は合併により大映になり、同社は同年、巣鴨撮影所は閉鎖した。かわって巣鴨に入る映画会社はもはやなく、かつて日本最大の映画量産地だった巣鴨から、映画製作の活気は失われた。

撮影所跡地には、のちに「豊島区立朝日中学校」が建てられた。同校も合併統合により、2001年(平成13年)に廃校となった(存続校舎は旧豊島区立大塚中学校豊島区立巣鴨北中学校の項を参照)。元校舎は2004年より「にしすがも創造舎」になり演劇の稽古場などに使われている。

主な所属人物

監督

男優

女優

関連事項

外部リンク