大道寺盛昌

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大道寺 盛昌(だいどうじ もりまさ、明応4年(1495年)- 弘治2年(1556年))は戦国時代武将で、後北条氏の家臣。

経歴

大道寺重時(発専)は、北条早雲(伊勢盛時)と共に駿河へ同行した御由緒六家の一人。大道寺政繁の父とも祖父、あるいは曽祖父とも言われているが、重時から政繁までは諸説あり、定かではない。そもそも早雲と一緒に駿河へ下向したのがこの盛昌である、とする異説もある。蔵人、駿河守を称した。

盛昌は、その早雲(盛時)の甥(厳密には従兄弟の子)にあたり、内政手腕に長けていたことから重用されたという。名前の「盛」の字も盛時から1字を与えられたものとされる[1]。盛時(早雲)亡き後は続いて北条氏綱に仕え、この間の業績として、里見義豊との鶴岡八幡宮の戦いで社殿が焼失した鶴岡八幡宮の再建のための造営総奉行に任じられて笠原信為とともに再建事業にあたったことが挙げられる。また、これに携わった北条為昌北条氏綱の次男)の烏帽子親を務めて、為昌に「昌」の字を与えている。為昌が玉縄城主に就任するとその後見役となり、これに関連して鎌倉の代官を務めた[2]

主君が氏綱から北条氏康に交代した後も、河越夜戦扇谷上杉朝定を相手に奮闘して戦功を挙げ、戦後はこの河越城の城代を務めている。史料上は天文19年(1550年)閏5月に鎌倉浄智寺に寺領を寄進した時が終見。某年7月12日に62歳で死去と伝えられている。跡を嫡男の周勝(重興)が継いだ。

脚注

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脚注

  1. こちらより。
  2. 佐藤博信によれば、盛昌は本来は鎌倉郡を含めた相模国東部地域の代官であり、若年である北条為昌の玉縄城主就任に伴ってその後見となり、それに関連して鎌倉代官としての役目を果たすようになったと推定している(佐藤「北条為昌と北条綱成」(初出:『日本歴史』435号(1986年)/所収:佐藤『中世東国の足利・北条氏の研究』岩田書院(2006年))。