大友親治

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大友 親治(おおとも ちかはる、寛正2年(1461年) - 大永4年1月19日1524年2月23日)は、豊後国戦国大名。豊後大友氏の第18代当主。父は第15代当主・大友親繁で、その五男。母は大友一族の竹中氏。兄弟に第16代当主・大友政親戸次親照大友親歳日田親胤日田親常竹中治直らがいる。妻は木野親則の娘で、その間に大友義長がいる。その他戸次元載田原親種等。

生涯

はじめは肥後国瑞光寺の僧侶であったが、長兄の政親が家督を継いだ頃に還俗し、兄を助けた。肥後国で異母兄弟の日田親胤が、長兄の政親やその子大友義右に対して謀反を起こしたときは、兄や甥を助けて親胤の反乱を鎮圧した。

明応5年(1496年)、甥の義右、次いで兄の政親が相次いで死去すると、直ちに軍を起こして対立者を滅ぼし、大友氏の家督を相続した。翌年には自身の家督を安定化させるため、当時の管領であった細川政元や将軍・足利義澄らと通じる。しかしこれに対して、周防大内義興が親治の従兄弟に当たる大聖院宗心を擁立して干渉してくる。

だが親治は明応7年(1498年)、豊前国下毛郡の戦いで大内軍を破って宗心を追放し、家督を完全に我が物とし、大友氏の戦国大名化を成し遂げた。

異母弟を日田氏に、また、同母弟を母の実家である竹中氏に入嗣させるなど、一門の強化を計った。

文亀元年(1501年)、子の大友義長に家督を譲って隠居したが、なおも隠居として実権は掌握し続けた。永正15年(1518年)、義長が自身に先立って死去するという不幸に見舞われたが、孫の大友義鑑を補佐し、大永4年(1524年)に64歳で死去した。

偏諱を与えられた人物


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