理蕃政策
理蕃政策(りばんせいさく)とは日本統治時代の台湾での当時蕃人・蕃族(野蛮人という意味)とよばれた台湾原住民に対する台湾総督府による宣撫、開化政策を意味する。撫育(ぶいく)とも言われる。
概要
初期の対原住民政策は、1895年の下関条約以前に台湾を領有していた清朝の対原住民政策を引き継ぐ形で始まった。台湾接収当初、台湾総督府は平野部に住む漢民族による抵抗運動の鎮圧に忙殺されていたので隘勇線(あいゆうせん)と呼ばれる封鎖線を敷き、原住民を居住区域に閉じこめる措置がとられた程度であった。
平野部の平定がすすむに従って台湾総督府は原住民の住む山地への浸透をはかり、抵抗する部族に対する討伐が繰り返された。帰順した部族に対しては本格的な理蕃政策が開始され、1910年の「五箇年計画理蕃事業」から本格化した。原住民の居住地は「特別居住区域」とされ、一般の法律が適用されず、警察が司法・行政権を執行した。
事業内容
具体的には以下の様な事が行われた。医療など特別な技術を要するものを除いて、現地に駐在する警察官が行った。
- 出草(しゅっそう…いわゆる首狩り)に代表される原住民固有の風習の根絶
- 土地の国有化
- 平地住民(漢民族)との分離
- 原住民部族のリーダーを東京などに招く(懐柔と威嚇を兼ねる措置)
- 殖産興業、貨幣経済の導入
- 蕃童教育所の設置による初等教育・日本語の普及
- 日本人(主として警察官)と原住民の女性との政略結婚
- 優秀な原住民の子弟を警察官などに登用する
- 強制移住(平地定住化)
効果
警察官が原住民の村々にくまなく駐在して威圧と指導を行った結果、当初散発的に起こっていた武力的な抵抗は影を潜めていった。しかしながら、当初の理蕃事業はその理念とは裏腹に原住民達に対して差別的な印象を与えるものであった。また、当時の国民一般の台湾原住民に対する意識も同様であり、雑誌等の誌面には「けっして人間とは思われない」などの記述がされていた。こうしたなか理蕃事業の先進地域と見なされていた霧社で起こった原住民による最大にして最後の蜂起が1930年の霧社事件である。こうした蜂起は日本の警察・軍によって鎮圧された。
霧社事件の発生に衝撃を受けた台湾総督府は理蕃政策そのものに抜本的な見直しを行い1931年に「理蕃政策大綱」を制定した。これによって原住民の呼称は、平地に住むものは「平埔蕃」から「平埔族」に、山地に住むものは「生蕃」から「高砂族」に改められた。日本人と同等の民族として位置づけられ、皇民化教育が最優先されるようになった。
結果的に『産経新聞』の取材によると、台湾原住民は「日本統治が台湾を発展させた」と考える人が多く、特に日本統治時代に日本側が原住民の文化についての詳細な調査・記録や研究をおこなったことが、原住民が自らの伝統文化を継承するにあたって大きな助けになっていると評価をしている[1]。
国民党統治下
1945年の日本の降伏により、第2次大戦後は「理蕃」という名前こそ改められたが、基本的な枠組みは国民党政府に継承された。現在も原住民の居住地域は「山地管制区」と呼ばれ、外部の人間が出入りし、経済活動を行うことが制限されている。(これは現在では隔離政策と言うよりも保護措置として受け止められている。)