坂庭省悟

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テンプレート:Infobox Musician 坂庭 省悟(さかにわ しょうご、 1950年1月20日- 2003年12月15日)は日本ブルーグラス歌手、フォークシンガー、作曲家。

高石ともや杉田二郎はしだのりひこらとともに関西フォークシンガーの旗手的な役割をなした。プロデビュー時に楽曲の提供を受け、1971年のヒット曲で『花嫁』作詞・作曲のコンビを組んだきたやまおさむとの親交も長くきたやまの著作にもエピソードが残されている[1]

経歴

デビュー以前

1965年、高校入学。高校ではブラスバンド部に所属。サックスを担当するも、ドラムスを密かに自主練習。高校のブラスバンド部の先輩のバンドで、ギターに触れる。

京都会館第二ホールで行われた『第一回 TAKE IVY キャンペーン(ヴァンヂャケット主催)』のライブで、同志社大学の学生・藤原洪太らの「ドゥディ・ランブラーズ」(後にはしだのりひこも参加)が唄ったアメリカン・フォークソングに魅了される[2]

京都産業大学に入学後、城田じゅんじと出逢う。

「マヨネーズ」でプロデビュー

1969年大谷大学在学中の中嶋陽二(中島要次)、立命館大学在学中の箕岡理とともにはしだのりひことシューベルツの弟分フォークグループ、マヨネーズを結成。同年8月15日、びわ湖サンケイバレイ(現在の「びわ湖バレイ」)での第4回フォークキャンプに参加。京都市の「円山公園野外音楽堂」での打ち上げコンサートで、「フォギー・マウンテン・ブレイク・ダウン」、「いなかへ行こう」、「砂にまみれて」、「綿つみの唄」を演奏[3]。これらの音源を収録した「第4回フォーク・キャンプコンサート」がURCから、1969年、発売された。

1970年、坂庭、中嶋、箕岡の3人で、東芝EMIより「男の子だから/いなかへ行こう」でレコードデビュー。 「男の子だから」は、北山修作詞・中島要次作曲、「いなかへ行こう」は北山修作詞・作曲。有馬敲作詞、岩井宏作曲の「ゆあそび」という子ども向けの詩を演奏して、同年4月に「ぼくのしるし わらべうた24」(URC)として、レコード化している。

はしだのりひこ&クライマックス参加

1970年、マヨネーズで一緒だった中嶋陽二とともに「はしだのりひこ&クライマックス」に参加。きたやまおさむ作詞の『花嫁』に曲をつけ、ミリオンセラーとなる。

1971年、『花嫁』で第22回NHK紅白歌合戦に出場。

ザ・ナターシャー・セブン時代

「クライマックス」解散後、真面目に大学に行こうと決心するも、1973年、城田が参加していた「高石ともや&ザ・ナターシャー・セブン」に参加。ハイテナーのコーラスと、マンドリン、ギターで活躍。

フォークス時代

1984年笠木透、安達元彦、進藤了彦、赤木一孝、松崎博彦の「フォークス」に参加。全国を草の根的に活動。フォークス時代は坂庭賢亨と名乗っていたが、その数多くのレパートリー(ほとんどは笠木が作詞)を作曲し、演奏(歌とギター)も含め、音楽的支柱として活躍。作曲に取り組みフォークス時代に88曲をつくる。「高石ともや&ザ・ナターシャー・セブン」時代に坂庭賢享名義で、きたやま作詞の「戦争を知らない子供たち‘83」に曲をつけ、フォークス在籍時にシングル版を自主制作[4]。1985年6月からフォークスの仲間と京都府立文化芸術会館で毎年1回、コンサート「博物詩」を1991年まで、7回続ける。

1990年代─様々なセッション

1992年、「SAM」を結成。この時期から、宮崎勝之、「ウェバリー・ブラザース」(中川イサト高田渡、坂庭省悟)、「ヒューマン ズー」(きたやまおさむ平井宏兼松豊赤木一孝・松崎博彦・坂庭・進藤了彦・城田)などさまざまなミュージシャンとのセッションを開始する。

1996年、『VINTAGE VOICE』(R.H.Y ) に参加。

1997年、『VINTAGE VOICE 2』に参加。きたやま作詞、坂庭作曲の『さよなら、青春』が東芝日曜劇場理想の上司」(1997年4月13日 - 6月29日放送)の主題歌に取り上げられる。初のソロアルバム『ぼくの古いギター』、城田とのデュオアルバム『力をあわせて』を発表。

1998年、17年振りに「高石ともや&ザ・ナターシャー・セブン」再会。毎年夏の宵々山コンサート、年に1回のコンサートツアーを再開。

デビュー30周年

1999年、デビュー30周年を記念したコンサートを京都、東京でひらく。これを機に Shogo BRAND.、Palm StringsRecords を立ち上げ、本格的なソロ活動を開始する。

2枚めのソロアルバム『別れのうた』、デビュー30周年記念のライブアルバム『LIVE この想い』、宮崎勝之とのデュオアルバム『Battle One』を相次いで発表。

12月、桂枝雀の追悼番組「夢のようなうつつのような」(NHK総合テレビ)の挿入歌に『この想い』ほか4曲が取り上げられる。 京都・都雅都雅で「8時間耐久ライブ」を始める。

新しい世紀へ

2000年、 50才を記念して、城田とのライブツアービデオ『fifty-fifty Live』を発表。

2001年、城田とのアルバム『Chikara wo Awasere vol.2』を発表。

2002年、1月NHK大阪ホール落成記念「上方演芸ホール 〜桂枝雀一門会〜」にゲスト出演「この想い」を唄う。

3枚めのソロアルバム『Hobo's Lullaby』を発表。

2003年、 映画『タカダワタル的』のためのライブに出演。宮崎勝之とのアルバム『Battle Two』を発表。12月15日53歳の若さでがんの前に倒れ永眠する。

エピソード

8時間耐久ライブ

坂庭省悟と中川イサトらの呼びかけにより、京都で1999年から「年忘れ8時間耐久ライブ」として始めたイベント。2003年12月の坂庭の死後も継続。通称「ハチタイ」。

主な出演者

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トリビュートアルバム

2006年1月20日、坂庭の誕生日にリリース。高田渡、茶木みやこ小室等有山じゅんじ、五十川清、平井宏、中川イサト、青木まり子、大西ユカリ、宮崎勝之、坂庭泰三、河合徹三、安達元彦、松田幸一、こむろゆい、ふたり乗り、代田幸子らがレコーディングに参加。

関連項目

外部リンク

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  1. CDブック『今語る あの時 あの歌 きたやまおさむ ―ザ・フォーク・クルセダーズから還暦まで―』(インタビュー&テキスト前田祥丈、アートデイズ刊・2007年)
  2. 坂庭省悟のエッセイ「『花嫁』のその後 逢いたい人に逢いにいく」(「神戸新聞」2002年8月31日掲載)
  3. 「1969京都フォーク・キャンプ」 (EMIミュージック・ジャパン、1998年6月)楽曲リスト、「第4回フォーク・キャンプ・コンサート」(avex io、2003年10月)楽曲リストによる。
  4. 最初のきたやまの詞は過激な内容を含んだもので、メジャーレーベルからの発売は難しいとの判断から、表現などをかなりソフトにしたものに改変された。ところが、それでもなお、某有名レーベルが「発売取りやめ」との結論に達したため、自主制作盤として名古屋労音からの発売となった。なお、2000年前後から、坂庭は自分のライブなどで、きたやまの当初のバージョンに近い形に戻した歌詞で歌うようになっていた。