吸入麻酔薬

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吸入麻酔薬(きゅうにゅうますいやく)は、呼吸器から吸収され作用を発現する麻酔薬である。主に呼吸器から排出される。現在存在する吸入麻酔薬はすべて全身麻酔薬である。

笑気以外は標準状態で液体であり、使用するには専用の気化器が必要である。また揮発させて使用することから揮発性麻酔薬と呼ばれる。

ファイル:Vaporizer.jpg
セボフルランの気化器とイソフルランの気化器

吸入麻酔薬の種類

歴史については麻酔#初期の吸入麻酔薬を参照。

現在主に使用されているもの

過去に主流であったもの・日本で使用されていないもの


吸入麻酔薬の特徴

肺から吸入され、血液を介し脳へ作用するのが吸入麻酔である。吸入濃度、肺胞濃度、血中濃度という順に変化するため一般的に導入が遅い。しかし、人工呼吸器を用いる場合は管理が非常に簡単なので麻酔維持によく用いられる。現在、小児など特別な麻酔を除き、導入は静脈麻酔薬で行われることが多い。

吸入麻酔薬使用の実際

映画等の誘拐シーンでは「白い布を口と鼻に当てると気体を吸い込んで眠ってしまう」というイメージで描かれているが、実際には全身麻酔を導入するときに吸入麻酔薬を用いると眠りに落ちるまで時間がかかること、その間体動がおこることなどの理由で通常はこのような方法は採らない。そのかわり静脈から麻酔薬を投与し吸入麻酔薬は手術中の麻酔維持に用いられることが多い。点滴に協力的でない小児の麻酔導入には吸入麻酔薬が用いられる。

手術中は酸素に混合して投与される。亜酸化窒素は麻酔作用が弱いので単独で全身麻酔に用いることはできない。


導入速度に影響を与える因子

肺胞換気量
ガスを吸入できる量のことになるので大きいほど導入は早くなる。
機能的残気量
肺内に含まれる空気の量になるので大きいほど導入は遅くなる。肥満者、妊産婦、仰臥位では横隔膜が挙上し、機能的残気量が減少するため導入が早いと考えられる。
換気血流分布の不均等
肺気腫、気管支喘息無気肺の患者では血流への麻酔薬の移行が遅れるといわれている。
心拍出量
心拍出量が多いと肺胞内濃度が上がりにくく、濃度勾配が作りにくく導入が遅くなると考えられている。
血液/ガス分配係数
37℃、760mmHgにおいて血液1mlに溶けるガスのml数のこと。大きいほど大量のガスが血液中に溶け込まなければならないので導入が遅くなる。あくまで麻酔の完成は、肺胞内濃度と血中濃度が等しくなったときと考えられている。
2次ガス効果
血液/ガス分配係数の低いガスを併用すると併用されている吸入麻酔薬の肺胞内濃度が上昇し吸収が速くなる現象のことである。これは吸収の速いガスが吸収された結果、他のガスが肺内に補充されるためにおこると考えられている。2007年現在、笑気はこの用途に用いられることが多い。酸素は血液/ガス分配係数に従わないため2次ガス効果はないと考えられている。

吸入麻酔薬を特徴づけるパラメータ

血液/ガス分配係数
最小肺胞内濃度(MAC)
1気圧下で100人に皮膚切開を加えて、このうち50人が体動を示さない吸入麻酔薬の肺胞濃度。鎮痛作用とは相関しない。およそ1.3MACで95%の人で体動を示さないといわれている。これをAD95ということもある。脂溶性の高い物質ほどMACが低い傾向がある。
最小肺胞内濃度(MACawake)
麻酔覚醒時に1気圧下で100人に呼名応答・自発開眼を試し、このうち50人が応答・開眼を示す吸入麻酔薬の肺胞濃度。(MACより実用的なパラメーター)

吸入麻酔薬の利点

吸入麻酔薬の麻酔標的部位への結合はvan der Waals力による分子間力であるため、結合・解離が可逆的である。 肺から血中に直接吸収排出されるため血中濃度が臓器代謝影響されにくく麻酔導入・覚醒が確実。 麻酔ガスの呼気終末肺胞濃度の測定から血中濃度が推定でき、標的臓器での麻酔薬濃度を確実にコントロールできる。

吸入麻酔薬の問題点

これらの問題点を持たない全身麻酔の方法として、'完全静脈麻酔' (TIVA) がある。

吸入麻酔薬の各論

ガス麻酔薬

亜酸化窒素(笑気)
現在用いられている唯一のガス麻酔薬である。常温でガスであるので当然、気化器は不要である。呼吸、循環に対する作用は殆どないが長期連用(3日位)で骨髄抑制が起こることが知られている。MACが105と高値であり、麻酔作用は弱いものの、血液/ガス分配係数は極めて小さく導入は極めて早い。鎮痛作用は強く、無痛分娩、歯科麻酔への応用がある。通常、単独で麻酔をかけることはできないので、他の麻酔薬と組み合わせて用いる。50%程度の濃度で用いて手術終了まで投与を続ける。近年は亜酸化窒素不要論が展開されている。その根拠は2次ガス効果の存在までも否定する意見が近年出つつあるからである。
閉鎖腔に対する効果
体内の窒素と置換されて麻酔作用を持つと考えられている。体内に閉鎖腔が存在すると窒素より亜酸化窒素の方が拡散が速いため閉鎖腔の拡大を招く。イレウス気胸副鼻腔炎中耳炎などでは注意して用いる必要がある。
拡散性低酸素症
亜酸化窒素終了時、大量の亜酸化窒素が肺胞内に出てくることで肺胞内酸素分圧が低下する。そのため亜酸化窒素終了後は5分以上の純酸素投与が必要と考えられている。
環境での半減期は130年程度
キセノン
血液/ガス分配係数は0.47、環境負荷ほぼない。

揮発性麻酔薬

エーテル(物質名としてはジエチルエーテルであるが、慣習的にエーテルといわれる)
爆発性があるため、電気メスと併用ができないため現在は用いることがない吸入麻酔薬である。逆に電気メスといった器具が登場する以前は、愛用する医師が多かった。血圧、脳圧の上昇、血糖値の上昇といった交感神経刺激作用があるものの不整脈は起こしにくい。気管支拡張作用はあるものの気道刺激性が強く喉頭痙攣をおこすことがある。非脱分極性筋弛緩薬の作用を増強することが知られている。クロロホルムと同様、ドラマでハンカチにしみこませて意識を失わせるという場面で登場するが、他の吸入麻酔薬と同様、導入は遅いためそのような使い方はできない。現在は実験動物の麻酔で用いられるくらいである。
ハロタン(ハロタン、フローセン)
爆発性のない吸入麻酔薬である。気管支拡張作用が吸入麻酔薬の中で最も高い。エピネフリンとの併用によって不整脈が起こることが知られている。ハロタン肝炎と呼ばれる肝毒性が知られることとなり、使用されなくなった。また悪性高熱症の発生頻度が多いことも知られている。
メトキシフルラン(ペントレン)
非爆発性のエーテルと形容される吸入麻酔薬である。非爆発性であるため電気メスとの併用が可能であり大いに期待された麻酔薬であったが腎毒性が明らかとなり発売中止となった。
エンフルラン(エトレン)
ハロタンとよく似た性質をもち、肝毒性を克服した吸入麻酔薬である。イソフルラン、セボフルランの出現で使用されなくなってきた。非脱分極性筋弛緩薬との共同作用だけでなく、単独で筋弛緩作用をもつ。
イソフルラン(フォーレン)
エンフルランの構造異性体であり、エンフルラン同様、ハロタンの欠点を補うようにデザインされた吸入麻酔薬である。血液/ガス分配係数が高く、また刺激臭を有するため導入には使いづらい。麻酔維持の目的で亜酸化窒素併用化で0.5~1.5%で用いられることが多い。脳圧、脳代謝抑制作用を持つため、脳神経外科の領域では非常に好まれる。ハロタンと比べ、肝毒性は極めて低くなったものの肝障害の患者には使わない方が良いとされている。ハロタン同様に悪性高熱症をおこすことがあるといわれている。頻脈をおこすことがセボフルランと対照的である。
セボフルラン(セボフルレン)
2007年現在、導入が早く、覚醒も早いといわれる揮発性麻酔薬である。血液/ガス分配係数は0.63であり、亜酸化窒素の0.47にかなり近い。エンフルランより強い筋弛緩薬との共同作用をもち、気管支拡張作用を持つため、気管支喘息の患者にも使いやすい。一部が麻酔回路中のソーダライムソーダ石灰)と反応し腎障害をおこすとされているコンパウンドAを生成することが知られている。このため腎障害の患者には使わない方が良いとされている(腎障害は殆どないとされているが)。イソフルランのような刺激臭もなく、導入にも維持にも用いることができる。緩徐に2~3呼吸ごとに0.5%ずつ濃度をあげていき5~8%まで上げていく緩徐導入(5~8分)やいきなり5~8%の高濃度を吸入させる急速導入のどちらでも使用可能である。刺激の少なさと合わせて、小児領域の麻酔では非常に好まれる。徐脈をおこすことがイソフルランと対照的である。環境での分解半減期は1.1年程度。
デスフルラン(スープレン)
日本でも使用される吸入麻酔薬である。血液/ガス分配係数は0.42で亜酸化窒素よりも低い。沸点が23.5度。セボフルランより時間にすると数分だが覚醒が速い。3時間以上継続使用しても、覚醒が遅くなることはない。(長時間麻酔に有利)覚醒後の喉頭・咽頭反射の回復が速い。ソーダーライムとの反応はほとんどない。気道刺激が強く、麻酔導入には使えない。半減期14年、環境負荷大きい。閉鎖麻酔、極低流量麻酔により環境負荷を減らして使用が望ましい。

各種データ

MAC 血液ガス分配係数
亜酸化窒素 105 0.47 気体
ジエチルエーテル 1.92 15.2 液体
クロロホルム 0.9 不明 液体
ハロタン 0.75 2.3 液体
メトキシフルラン 0.16 13 液体
エンフルラン 1.68 1.9 液体
イソフルラン 1.15 1.41~2.11 液体
セボフルラン 1.71 0.63 液体
デスフルラン 7.25 0.42 中間
キセノン 64~71 0.115 気体

出典は[1][2][3][4]

関連項目