十河存保

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十河 存保(そごう まさやす / ながやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将

生涯

十河氏の家督継承

天文23年(1554年)、三好長慶の弟・三好義賢(実休)の次男として生まれる。永禄4年(1561年)に叔父で讃岐国十河城主の十河一存が急死。永禄6年(1563年)には長慶の嫡子で三好家当主の三好義興が早世し、一存の嫡子・重存(のちの三好義継)が三好家を継ぐこととなったため、代わって存保が一存の養子という形で十河家を継ぐこととなった(義継の実弟・十河存之庶子であったため家督を継げず、存保の家老となった)。阿波三好家を継いだ実兄の三好長治と十河存保は幼かった為、実休の旧臣・篠原長房が、篠原自遁赤沢宗伝らと共に阿波の三好家、讃岐の十河家を補佐した。

織田信長との戦い

永禄9年(1566年)6月、篠原長房が阿波公方足利義栄を奉じて四国勢を率い大和松永久秀三好義継を攻めると兄・長治と共にそれに帯同したが(東大寺大仏殿の戦い)、織田信長が足利義昭を奉じ上洛すると、阿波・讃岐へ撤退した。

元亀元年(1570年)7月、三好三人衆三好康長らが野田・福島に兵を挙げると(野田城・福島城の戦い)、十河存保は篠原長房に帯同し、再び畿内に上陸するが正親町天皇の勅命により、信長と和睦し阿波・讃岐に引いている。

元亀2年(1571年)5月、浦上宗景の要請により、篠原長房は香西氏奈良氏を伴い備前児島に上陸、本太城、賀陽城を攻め、小早川家臣・粟屋就方を破っている。香西氏は東讃岐の国人、奈良氏は西讃岐の国人であり、東讃岐守護代・安富氏、西讃岐守護代・香川氏と合わせ、細川四天王と称された。

元亀3年(1572年)、篠原長房が縁戚の安富盛定と計り、寒川元隣から讃岐大内郡4郷及び挙山城虎丸城を取り上げ、讃岐への支配を強化する。寒川氏は、香西氏と同様に東讃岐の国人であり、室町時代初期に細川頼之の家臣、東讃岐守護代・安富氏に従属したものの独立性が強く、阿波・讃岐守護の細川氏、阿波守護代の三好氏、十河氏に容易に従わず、三好政権下においては、三好実休や十河一存に敗れ従属していた。しかしながら、長房の死後、この事件は逆に香川氏、香西氏の阿波三好家からの独立の口実にされてしまう。

元亀4年(1573年)4月、十河存保は和泉松浦氏を介し信長に通じた。その際、三好義継の拠る河内国若江城を攻略すれば河内半国と摂津欠郡を与えると約束されたが[1]、若江城は若江三人衆の裏切りにより同年11月に陥落した。(但し和泉岸和田城主・松浦氏の松浦孫八郎は十河一存の実子であり[2]、先の書状の十河某は、存保とは別人の可能性がある。)

同年5月、篠原長房は三好長治と険悪な仲となり、隠居するものの居城の上桜城を攻められ、籠城の末に戦死してしまう(上桜城の戦い)。この時の上桜城攻めの主力は十河存保ら讃岐勢であった。篠原長房の縁戚である安富盛定は討伐を恐れ、密かに播磨黒田孝高羽柴秀吉を介し、織田信長の配下に密かに入ってしまう。以降、盛定は秀吉に遠慮して筑前守を改め肥前守を名乗った。

讃岐衆の離反

天正2年(1574年)、十河存保は、香川之景香西佳清から連名で阿波三好家からの離反を警告される。理由は先の長房の大内郡割譲と三好長治の強権政治だったという。これに対し、三好長治は讃岐に兵を出したが大西氏、長尾氏まで香西氏らに同調した上に、長宗我部元親が阿波南部の海部城を攻撃したため、長治は阿波に撤退する。同年、香川氏は、細川昭元を介して信長と通じている。

天正3年(1575年)4月、河内国高屋城と摂津国新堀城が落城し、三好康長が信長に降伏する。この時、十河存保は畿内に兵を送っており、新堀城に立て籠もった十河一行香西長信が戦死している(高屋城の戦い)。これにより、三好家は畿内の拠点を喪失した。以降、三好康長は信長のために阿波・讃岐国人衆の調略を行っている。

同年、香川之景は、香西佳清と図り、那珂郡の奈良氏領の代官をつとめていた金倉顕忠を攻め、その所領を奪ってしまう。これに対し三好長治と十河存保は金倉顕忠を救うことができず、この頃には香川氏と香西氏に代表される讃岐国人に対する支配力を完全に喪失していた。

天正4年(1576年)香川之景と香西佳清が織田信長に臣従し、之景は名を信景に改める[3]


長宗我部元親との戦い

天正5年(1577年)3月、阿波国で実兄の三好長治が長宗我部元親の後援を受けた異父兄の細川真之に敗れ自害する。

同年7月、讃岐に小早川氏が上陸、西床城主の香川民部少輔を助け、長尾氏と羽床氏を攻めている(元吉合戦)。

天正6年(1578年)十河存保は阿波勝瑞城に入り、阿波における三好家の勢力挽回に務めた[4]。その後、存保は、長宗我部元親への抗戦を呼びかけ讃岐・阿波の国人の大半を糾合することに成功するが、香川之景はこれに応じず、長宗我部元親の子・親和を養子として受け入れ、長宗我部家の軍門に下ってしまう。

天正8年(1580年)、織田信長は長宗我部元親の四国征服をよしとせず、土佐国と阿波南半国のみの領有を認めて臣従するよう迫る。元親は信長の要求を拒絶する。このため信長と元親は敵対関係になる。

天正9年(1581年)3月、信長の助力を得た三好康長・十河存保は長宗我部元親への反攻を開始する。康長は息子の康俊を寝返らせ、十河存保は中国で毛利氏と交戦している羽柴秀吉と通じて元親に圧迫を加えた。

天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変で信長が死去すると存保は後ろ盾を失う。 同年8月、香川親和が香西佳清が立て篭もる藤尾城に攻め入り、香川之景の仲介の基、香西佳清が長宗我部氏に降った。同月、香川氏と香西氏は、城代・十河存之が籠城する十河城を攻めるが落城させることはできなかった。

一方、阿波の十河存保は、中富川の戦いにて激戦を繰り広げるも長宗我部元親に敗北、存保は阿波と勝瑞城を放棄し、同年9月、讃岐の虎丸城に撤退した。長宗我部元親軍は香川親和軍と合流し総勢3万6千の兵をもって、十河城を攻めたが落城させる事は出来ず、冬には土佐に帰国した(第一次十河城の戦い)。 同年10月、存保は阿波に再侵攻し茅ヶ岡城を攻め、細川真之を自害に追い込んでいる。

天正12年(1584年)6月十河城と虎丸城は、長宗我部元親により落城、存保は大坂の羽柴秀吉(豊臣秀吉)を頼って落ち延びた(第二次十河城の戦い)。

四国征伐と九州征伐

天正13年(1585年)6月、豊臣秀吉の四国征伐に協力し、旧領である讃岐十河3万石を秀吉より与えられて大名として復帰した。 しかし天正14年(1586年)、秀吉の九州征伐に従った際、軍監・仙石秀久の無謀な作戦に巻き込まれてしまい、島津家久との戸次川の戦いにおいて戦死した。享年33。

子として、嫡子の千松丸存英坂東保長がいる。このほかに豊前守長康、雅楽頭存純、村田九兵衛存継の名も伝えられるが諸説あり定かではない。

注釈

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  1. 信長、柴田修理亮へ十河より松肥(松浦肥前守)を介して河内国若江城攻撃の後援要請を受けたことを通知、河内国若江城を即時攻略すれば十河に(三好)義継知行分の河内半国と摂津国欠郡を「契約」し、もし一度の攻撃で陥落しなくても付城を構築するなどして攻略に成功すれば河内半国を与えることを約束(山崎文書)
  2. 場部隆弘「信長上洛前夜の畿内情勢」(『日本歴史』平成21年9月号)
  3. (南海通記)但し之景と信景は別人説がある
  4. 以後、三好家の実質的な当主として活動したためか、署名などでは十河姓よりも三好姓を名乗る事が多くなる。