別府鉄道土山線

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|} 土山線(つちやません)は、兵庫県加古川市別府港駅から同県加古郡播磨町土山駅を結んでいた別府鉄道鉄道路線1984年(昭和59年)に廃止された。

野口線と同じく、別府港にある多木製肥所(現在の多木化学)で製造された化学肥料や製鉄化学工業(現・住友精化)の製品を輸送するために、国鉄山陽本線との接続路線として開業した。国鉄高砂線を経由する必要のある野口線と違い、直接山陽本線に連絡できることから、国鉄との連絡貨物輸送が主体であった。旅客営業も行っていたが、沿線に人家が少ないこと、列車本数も少ないことから利用客はわずかしかいなかった。

路線データ

廃止時点のもの。

  • 路線距離(営業キロ):4.1km
  • 軌間:1067mm
  • 駅数:3駅(起終点駅含む、信号所除く)
  • 複線区間:なし(全線単線
  • 電化区間:なし(全線非電化

運行形態

土山線はすべて機関車牽引の列車で、貨物列車の車掌車代わりのような形で客車が連結され客扱いを行なっていた。別府港駅ではホームに接していない線路から発車することもしばしばあり、乗客はなんと線路に降りて、ドア下に垂れ下がったステップに足をかけて乗り込んでいた。

1969年(昭和44年)12月時点[1]では、貨物列車2往復、混合列車4往復、日祝日運休の旅客列車1往復であった。所要は貨物と混合列車が14分、旅客列車が10分であった。

1984年(昭和59年)1月時点で、1日4往復の旅客列車が運行されていた[2]

これらとは別に川崎重工業車両工場があった川崎車輛工場前信号所から新製された貨車も搬出された(現在も工場自体はあるが、貨車の製造は行っていない)。

車両

ファイル:別府鉄道DC302.jpg
別府鉄道DC302 播磨町郷土資料館
ファイル:別府鉄道ハフ5.jpg
別府鉄道ハフ5 播磨町郷土資料館
DB201
1965年(昭和40年)に三菱重工業で新造された機関車。貨物牽引用として廃線時まで使用された。
DC302
1953年(昭和28年)に倉敷市交通局(現水島臨海鉄道)の機関車として川崎車輛で製造された。その後別府鉄道に入線し、別府港の入換用として使用された。廃止後は播磨町郷土資料館でハフ5と共に保存されている。
ハフ5
1930年(昭和5年)に神中鉄道(相模鉄道の前身)のガソリンカー・キハ10として日本車両で製造された2軸車。その後客車化されて客車ハ10となり、三岐鉄道に譲渡された後、1959年(昭和34年)に別府鉄道に入線。廃線まで運行され、廃止後は播磨町郷土資料館でDC302と共に保存されている。
ハフ7
1926年(大正15年)、神中鉄道開業時に汽車会社で製造された客車ハ24で、三岐鉄道に譲渡された後、1959年(昭和34年)に別府鉄道に入線。2軸4輪・ダブルルーフ・オープンデッキの木造車という、1984年(昭和59年)の廃線の当時では旅客車両として使用されていたのが不可思議なまでの古典的車両であった。廃止後は相模鉄道に引き取られ、かしわ台車両センターの正門前に保存されている。

歴史

  • 1923年大正12年)3月18日 - 別府港 - 新土山(のちの土山)間が開業[3]
  • 1932年昭和7年)- 中野駅を開設
  • 1966年(昭和41年)3月1日 - 川崎車輛工場前駅を開設
  • 1969年(昭和44年) - この年までに川崎車輛工場前駅を信号所に変更
  • 1984年(昭和59年)2月1日 - 別府港 - 土山間廃止(バス転換されず)

駅一覧

別府港駅 - 中野駅 - 川崎車輛工場前信号所 - 土山駅

※ 川崎車輛工場前信号所はポイント(分岐器)があるだけのもので、係員の常駐はなかったようである。

接続路線

脚注

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参考文献

関連項目

  1. 藤井 (1969) p. 73
  2. 宮脇俊三『鉄道廃線跡を歩くIV』JTB、1997年、p.127
  3. 「地方鉄道運輸開始」『官報』1923年3月21日(国立国会図書館デジタルコレクション)