出島武春

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出島 武春(でじま たけはる、1974年3月21日 - 、本名同じ)は、武蔵川部屋所属の元大相撲力士。現役時代の最高位は東大関。現在は年寄大鳴戸

人物

石川県金沢市生まれ。金沢市立鳴和中学校、金沢市立工業高等学校を経て中央大学法学部卒業。[1]

血液型はA型。現役時代は身長180cm、体重161kgであった。[2]

得意手は押し出し、右四つ、寄り切りで、立合いからの鋭い出足を生かした速攻相撲だった[2]。出足が冴えたときには、自身の四股名に因み「出る出る出島」と称された。これについては本人も意識していたらしく、2003年3月場所、横綱朝青龍を破ったときの勝利力士インタビューでは「これからも言われるよう頑張りたい」と話していた。

また、肌が他の力士に比べ非常に白く、前述の取り口との関連から「白い弾丸」の渾名があったほか、美白ブームとなったときは「美白力士」とも称された。当時、美容研究家の鈴木その子からも懸賞を出されたこともあった。

同じ石川県出身の栃乃洋七尾市出身)は同期生で、幼少時代からの良きライバルである。また、学生時代は柳川もライバルとされていた。

一人っ子で、趣味陶芸、好きな言葉は「流した汗は嘘をつかない」。[1]

来歴

幼少期〜学生時代

相撲が盛んな土地柄に育ち、小学1年生の時に、町内対抗の相撲大会に出場させられたことがきっかけで相撲を始めた。[1]

中学に入学し、監督に誘われて相撲部に入部したことを契機に、相撲に本格的に取り組むようになった。3年時には全国大会の個人戦で2位にまで上り詰めた。しかし、稽古があまりに厳しかったため常に退部届けを出すことを考えていたが、結局先生が怖くて出せなかった。また、全国大会で準優勝したことで複数の相撲部屋から誘いもあったが、当時は「怖い世界」と大相撲に進む意思は全くなかった。その一方で、「花を咲かす下準備が中学時代だった」とも後に語っている。[1]

高校生の時には7タイトルを獲得した。高校横綱を獲得した[3]だけでなく、インターハイ国体の個人戦でも優勝を果たした。[1]

高校卒業後には中央大学の監督やアマチュア横綱を獲得していた3つ上の先輩であった栗本(後の武哲山)に誘われ、鳴り物入りで中央大学に進学した。しかし、1年の時こそ先輩の栗本や松本(後の玉春日)の胸を借りて厳しい稽古を積むことが出来たものの、上級生になり出島に敵う稽古相手がいなくなったことで慢心し伸び悩んだ[1][3]。強い稽古相手を求めて相撲部屋で稽古しようにも、大学が八王子市という相撲部屋から遠いところにあるため、都心にある他の大学の相撲部員のように力士の胸を借りることが出来なかった[1]。結局全国学生相撲選手権大会学生横綱)と全日本相撲選手権大会(アマチュア横綱)で一度も優勝することができなかった。自身の在学中から、当時既に武蔵川部屋に入門していた武哲山から大相撲に入るよう誘われていたが、少年時代からの大相撲のイメージを引きずっていた出島はプロ入りを渋っていた。しかし、ビッグタイトルを逃した悔しさから4年生の11月になってようやく入門を決意し、武蔵川部屋に入門した。[1]

初土俵〜大関

1996年3月場所において幕下付出初土俵を踏んだ。部屋では武蔵丸武双山といった稽古相手に恵まれ、本人が「大学の4年間よりプロに入っての半年の方が伸びた」というとおり、番付を駆け上がっていった[3]。入門から半年の同年9月場所に初土俵から3場所で十両に昇進し、十両も3場所で通過して1997年3月場所に新入幕を果たした。ここまで負け越し知らずの出世だった。

新入幕の場所はいきなり11勝4敗の好成績を挙げ、敢闘賞技能賞を同時に獲得する。翌5月場所は7勝8敗に終わり大相撲で初めて負け越したものの、同年9月場所では前頭筆頭の地位で、当時二人横綱貴乃花を下し、2個の金星を獲得するなどの大活躍で11勝4敗の成績を挙げ、翌11月場所は小結を飛び越えて関脇に昇進した。この頃はまだ大銀杏すら結えていなかったが[2]、次第に次期大関候補と注目され始めた。しかし、その11月場所7日目、大学の先輩・玉春日との取組で土俵際まで追い詰めた際に左足首に大怪我を負ってしまい途中休場し、1ヶ月以上の入院を余儀なくされた[3]。その後1998年1月場所と3月場所を全休して、5月場所に前頭11枚目で復帰してからは、順調に番付を上げて同年9月場所で三役に返り咲き、勝ち越しを続けた。

1999年は、3月場所に小結で9勝6敗、5月場所に関脇で11勝4敗を挙げ、「準ご当地」とも言える名古屋での7月場所は大関獲りの場所となった。この場所は初日から快進撃を見せ、7日目に曙を掬い投げでひっくり返し、9日目には貴乃花を豪快なハズ押しで見事に押し倒しで勝利した。しかし自身は4日目の琴錦と11日目の魁皇にそれぞれ敗れ、出島に負けただけの曙に星の差1つで追走する形となった。金沢から大応援団が駆けつけた千秋楽は、関脇栃東寄り切りに破って幕内昇進後自己最高となる13勝2敗の成績を挙げて、結びの曙の結果を待った。その結びの一番は、兄弟子の横綱武蔵丸が掬い投げで曙を下し、曙との優勝決定戦にもつれ込むこととなった。その大一番は、出島が立合いに左からいなす注文相撲を見せて曙を破り、念願の幕内最高優勝を果たした。優勝パレードの旗手は弟弟子の雅山が務めた。さらにこの場所は、1992年1月場所の貴花田(のちの横綱貴乃花)以来となる7年ぶりに三賞トリプル受賞を果たした。場所後にはついに大関の座を射止めたが、学生相撲出身力士の大関昇進は、1983年3月場所後の朝潮以来、16年ぶり4人目のことであった。昇進伝達の使者を迎える口上では「力の武士(もののふ)を目指し、精進、努力する」と語った。[4]

新大関で迎えた1999年9月場所は10勝5敗とまずまずの成績だった。それ以降10勝前後の安定した成績を挙げるも、大関での最高成績は2000年3月場所の11勝で、千秋楽まで優勝争いに加わる事は一度も無かった。2001年1月場所は7勝8敗と大関で初の皆勤負け越し。初の角番で向かえた3月場所は千秋楽に朝青龍を下して8勝7敗と勝ち越し、辛うじて角番を脱出した。だが5月場所では10日目に玉春日に敗れ2勝8敗と再び負け越しが決まり、この場所は5勝10敗に終わった。2回目の角番で迎えた7月場所では、初日から3連勝したものその後2連敗、蜂窩織炎による発熱で緊急入院したため、6日目から途中休場。同場所の再出場は叶わず、2場所連続負け越しにより大関から関脇へ陥落が決まってしまう。この蜂窩織炎は医師が「普通の人なら死んでいる」というほどの重度のもので、1ヶ月あまりの加療を余儀なくされた。入院中は最大42度の高熱に苦しみ、退院後もしばらくは38度台の高熱に苦しんだ。この大病については後に本人が、大関に在位することから来る「負けられない」というプレッシャーによって精神的にやられ免疫が弱っていたのだろう、と述懐している。[1]

関脇陥落後

1999年7月場所以来約2年ぶりに関脇の地位へ下がった2001年9月場所、10勝以上の大関特例復帰を賭けて臨んだものの、結局5勝10敗の負け越しに終わった。その後も2003年3月場所に小結、5月場所に関脇へと戻ったものの、それ以降は殆ど平幕上位での相撲が続いた。大関から転落後暫くは、蜂窩織炎により蝕まれた足が痛々しく、相撲ぶりにも粘りを欠いた。またこの頃、後援会の会員数が減るなどの悲哀も味わい、後に「人間の冷たさ、薄情さ、『手のひらを返す』ということを勉強させてもらった」と語るほどであったが、同時に引き続き応援し続けてくれる人が本当のファン、後援者であるということも改めて勉強して「大切なものを再認識できた」とも語っている[1]。さらに、インタビューなどでしばしば「横綱・大関と取れる番付にいたい」等と、上位で相撲を取ることへの意欲を語ることが多かった。横綱・大関とも十分に渡り合えるだけの実力を長期間保ち、元大関としての矜持も持っていた。

それが最高の形で現れたものが、2007年であった。この年は出島の活躍が目立ち、復活を印象付けた。西前頭筆頭で迎えた1月場所は序盤は出足が冴え、2日目に大関白鵬押し出しに破り、3日目には横綱朝青龍を土俵下に叩きつけて圧勝し、大関陥落後2個目、朝青龍からは初めての金星を挙げた。しかしその後は一転、2度の5連敗を喫して4勝11敗と大きく負け越し、殊勲賞を逸した。次の3月場所も7勝8敗と負け越して、前頭2桁台に落ちた5月場所では、初日から8連勝という自己新記録を打ちたて、中日勝ち越しを決めた。結局その場所は12勝3敗の好成績で、優勝した場所以来となる実に47場所ぶりの敢闘賞を受賞した[5]。11月場所では、中日に全勝であった千代大海を破るなど活躍を見せ、西前頭2枚目で10勝5敗と勝ち越し。三賞候補にも挙がったが、過半数にわずか1票足りず受賞を逃した。

2008年1月場所は、27場所ぶりに小結復帰を果たしたものの、3勝12敗と大敗。これが現役最後の三役の場所となる。その後は出足が鈍り、叩く相撲や立合いの変化が増えた。同年9月場所での勝ち越しを最後に、遂に二度と勝ち越すことはなかった。同年11月場所では、初日から6連勝するも、その後9連敗を喫し6勝9敗と負け越してしまった。2009年3月場所初日に黒海掛け投げを喰らい左から落ちてを負傷した。休場することこそなかったものの完治することなく、結果的には相撲人生にとって致命傷となった。幕内優勝からちょうど10年が経った2009年7月場所は、下に2枚しかない状況で10日目に負け越しを喫し、厳しい状況となった。翌11日目にも豊ノ島に敗れて2勝9敗となり、十両陥落が濃厚となったため、この相撲を最後に現役引退を表明した。関脇陥落の後、大関へ再昇進することなく丸8年間48場所にわたって三役以下の幕内で相撲をとり続けたが、これは元大関としては当時史上最長記録の第1位であった。[6]

引退後

引退後は、既に所有していた年寄・大鳴戸を襲名し、武蔵川部屋(2010年9月30日藤島部屋に名称変更)の部屋付きの親方として後進の指導に当たっている。引退相撲が2010年5月29日に行われた。現在は審判委員も務めている。

2014年7月30日、豪栄道の大関昇進の伝達式では、同じ一門の出来山理事に同行し、使者を務めている[7]

主な成績

通算成績

  • 通算成績:595勝495敗98休 勝率.546
  • 幕内成績:546勝478敗98休 勝率.533
  • 大関成績:100勝71敗9休 勝率.585
  • 幕内在位:74場所
  • 大関在位:12場所
  • 三役在位:12場所(関脇5場所、小結7場所)
  • 通算(幕内)連続勝ち越し記録:16場所(1998年5月場所~2000年11月場所)
  • 幕内連続2桁勝利記録:4場所(1999年5月場所~1999年11月場所)

各段優勝

  • 幕内最高優勝:1回 (1999年7月場所)
  • 十両優勝:1回 (1997年1月場所)
  • 幕下優勝:1回 (1996年5月場所)

三賞:金星

  • 三賞:10回
    • 殊勲賞:3回(1997年9月場所、1998年7月場所、1999年7月場所)
    • 敢闘賞:4回(1997年3月場所、1998年5月場所、1999年7月場所、2007年5月場所)
    • 技能賞:3回(1997年3月場所、1997年9月場所、1999年7月場所)
  • 金星:6個
    • (曙2個、貴乃花2個、若乃花1個、朝青龍1個)

場所別成績

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主な力士との幕内対戦成績

力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数
蒼樹山 7 0 琴奨菊 6 6 時天空 8 7
安芸乃島 14 8 琴錦 7 3 土佐ノ海 20 16
7 6 琴ノ若 19 7(1) 栃東 9 25
朝青龍 4 16 琴光喜 9 16 栃栄 3 5
朝赤龍 13 5 琴龍 11 6 栃ノ心 3 4
朝乃若 7 1 敷島 3 2 栃乃洋 24 16(2)
日馬富士 2 4 霜鳳 8 6 栃乃和歌 5 1
安美錦 9 11 十文字 7 3 豊ノ島 4 9
岩木山 8 8 貴闘力 12 3 豊響 6 0
皇司 4 2 貴ノ浪 19 9 白鵬 2 10
小城錦 4 3 貴乃花 4 13 濱ノ嶋 4 1
魁皇 15 25 若乃花 2 5 追風海 4 2
海鵬 12 6(1) 隆乃若 6 6 把瑠都 0 5
鶴竜 2 4 高見盛 9 7 肥後ノ海 4 4
春日王 3 4 豪風 6 3 普天王 4 8
春日錦 3 2 玉春日 19 9 豊真将 3 5
稀勢の里 6 4 玉乃島 12 10 北勝力 7 9
旭鷲山 21 6 千代大海 14 20 湊富士 5 0
旭天鵬 10 14 千代天山 7 3 嘉風 4 1
黒海 7 9 闘牙 12 3 露鵬 1 10
琴欧洲 5 9 時津海 6 3 若の里 14 18

※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。太字は2014年3月場所現在の現役力士。

年寄名跡

  • 大鳴戸武春(おおなると・たけはる 2009年(平成21年)7月~)

関連項目

脚注

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外部リンク

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テンプレート:歴代大関 テンプレート:現役年寄

テンプレート:藤島部屋
  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 1.9 「大鳴戸親方(元大関・出島)に土俵人生を聞く『流した汗は嘘をつかない』:Hakumonちゅうおう【2010年春季号】」Chuo Online : YOMIURI ONLINE読売新聞 、2011年1月9日閲覧
  2. 2.0 2.1 2.2 水野尚文・亰須利敏編著『平成22年版大相撲力士名鑑』共同通信社、2009年、252頁より。
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 長山聡「荒川の人 - 出島武春」財団法人荒川区地域振興公社、2011年1月9日閲覧
  4. 出島武春 【父の夢果たした「白い稲妻」 - 読売年鑑2000
  5. 47場所ぶりの三賞は史上3位の間隔。
  6. 2009年11月場所で雅山が、大関陥落後の三役以下の幕内在位が49場所に達し、出島の48場所を塗り替える。その後雅山は2013年3月場所で十両の地位で引退、結果出島の記録を20場所も上回り、68場所の歴代最長記録となった。
  7. 大関豪栄道「これからも大和魂を貫く」 日刊スポーツ 2014年7月30日