伊東祐安

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

伊東 祐安(いとう すけやす、生年不詳 - 元亀3年5月4日1572年6月14日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将伊東氏の家臣。伊東祐武の次男。加賀守。

生涯

天文2年(1533年)、父の祐武は伊東祐充死後の家督争いに敗れ、自刃に追い込まれた。祐武の子達は許されたようで、祐安は一門の武将として伊東義祐に仕えた。飫肥攻めでの活躍をはじめ、天文18年(1549年)の堰ノ尾の戦い、永禄9年(1567年)の耳田の戦いが記録に残っている。

永禄11年(1568年)、伊東氏は真幸院飯野地区攻略のため、島津義弘菱刈氏攻略している間に不在の飯野城攻めの大将として出陣した。しかし、義弘に気付かれたため睨み合いとなり、桶平城を築いて佐土原遠江守を城代として残すも成果は得られず、主君である伊東義益の急死もあり撤退する。また元亀2年(1571年)頃、祐安は三ツ山内木場城を守っていたようである。

その後、元亀3年(1572年)に今度は飯野城の先の加久藤城攻略のために兵3000を伴い出陣。伊東軍は緒戦では数の上で優勢であったが、兵の疲れが見られ、木崎原に引き上げてきたところを寡兵の島津軍に挟撃され総崩れになった(木崎原の戦い)。祐安は敗走する伊東勢のしんがりを務めたが、子の伊東祐次(源四郎)の戦死を知ると、敵の大将・島津義弘へ仇討つため引き返し、村尾重侯被官である二階堂四郎左衛門に脇下を射抜かれ戦死したという。

祐安の子孫

薩摩藩士で伊東加賀守祐安の養子で弟という右衛門を祖とする伊東氏がいる。右衛門も木崎原の戦いで戦死するという。薩摩藩の史料である「旧記雑録拾遺 伊地知季安著作集三」に『伊東才蔵家』として右衛門の子孫の略系図が記載されている。右衛門の子の次左衛門(金法師)は佐土原陥落で浪人となったのちに伊集院忠真や島津義弘に仕える。次左衛門の子は島津光久守役の仙右衛門(志磨助)と続き、子孫は幕末の伊東才蔵であるとしている。また、小笠原長生の「元帥伊東祐亨」では仙右衛門(藤五郎)の諱を祐正とする。その孫娘松井は薩摩藩奥女中で分家し、甥が松井の養子となるが、この子孫が伊東祐麿伊東祐亨兄弟であるという。

なお「本藩人物誌」によると薩摩藩にはもう一家、伊東加賀の次男の平右衛門祐氏の養子伊東駿河祐豊(実は河崎祐長長男)を祖とする伊東氏があるが、こちらの加賀守は六郎左衛門祐国の子であるといい、この加賀守が加賀守祐安を指すかは定かではない。

参考文献

  • 「旧記雑録拾遺 伊地知季安著作集三」
  • 小笠原長生「元帥伊東祐亨」