中山慶子

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中山 慶子(なかやま よしこ、天保6年11月28日1836年1月16日〉 - 明治40年(1907年10月5日)は、明治天皇の生母。孝明天皇典侍。号は中山一位局など。権大納言中山忠能の次女で、母は平戸藩主・松浦清(靜山)の十一女・愛子侯爵を授けられた中山忠愛は長兄。天誅組の主将・中山忠光は同母弟。従一位勲一等。

天保6年11月28日(1836年1月16日)、京都石薬師に生まれ、八瀬(現京都市左京区八瀬)に里子に出されて育つ。17歳で典侍御雇となって宮中に出仕し、名を安栄(あえ)と賜る。孝明天皇の意を得て懐妊し、嘉永5年9月22日1852年11月3日)、実家中山邸において皇子・祐宮(さちのみや、のちの明治天皇)を産む。家禄わずか二百石の中山家では産屋建築の費用を賄えず、その大半を借金したという。

祐宮はそのまま中山邸で育てられ、5歳の時に宮中に帰還し慶子の局に住んだ。その後、孝明天皇にほかの男子が生まれなかったため、万延元年7月10日1860年8月26日)、勅令により祐宮は准后女御九条夙子の「実子」とされ、同年9月28日親王宣下を受け名を「睦仁」と付けられた。

慶応3年(1867年1月9日、睦仁親王が践祚。同年4月、慶子は病のため辞していた典侍に再任される。慶応4年(1868年8月4日従三位及び食禄五百石と屋敷地を賜わり、翌々年9月7日、さらに従二位に叙せられた。明治3年(1870年)9月、遷都に伴い東京に移住。

明治12年(1879年)に生まれた嘉仁親王(のちの大正天皇)の養育掛となり、同22年(1889年)まで親王の養育を任せられた。同年正二位

明治維新による女院号廃止のため院号宣下は無かったが、国母として相応に厚遇された。明治33年(1900年1月15日、大患により従一位に昇叙。同17日、人臣で初めて勲一等宝冠章を授けられた。明治40年(1907年)10月5日、東京青山南町の邸にて薨去。享年73。豊島岡墓地に埋葬される。

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