七五三

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七五三(しちごさん)とは、7歳、5歳、3歳の子供の成長を祝う日本の年中行事天和元年11月15日1681年12月24日)に館林城主である徳川徳松(江戸幕府第5代将軍である徳川綱吉の長男)の健康を祈って始まったとされる説が有力である。

概要

11月15日は、子供成長を祝って神社などに詣でる年中行事(神社庁より)。現在では全国で盛んに行われているが、元来は関東圏における地方風俗であった。現在は「七五三」という名称から、その年齢にやる同じ行事のように捕らえられ、そうなりつつあるが、実際には、それぞれの年齢で行う、別々の異なった行事であり、3つの子供の行事を、「七五三」と呼んだため、本来の神事の内容が薄れ、同じ行事のように思われている。そのため、現在でも地方によって年齢や祝う内容が異なるが、発祥とされる関東地方では、以下のように考えられている。

 数え年3歳(満年齢2歳になる年)を「髪置きの儀」とし、男女とも行う。江戸時代は、3歳までは髪を剃る習慣があったため、それを終了する儀。

 数え年5歳(満年齢4歳になる年)を「袴儀」とし、男の子が行う。男子が袴を着用し始める儀。

 数え年7歳(満年齢6歳になる年)を「帯解きの儀」とし、女の子が行う。女子が幅の広い大人と同じ帯を結び始める儀。   

この儀は、京都、大阪でも行われるようになり、早期に全国に広まったとされる。江戸時代に始まった神事であるため、旧暦の数え年で行うのが正式となる。 ただし、神事としては、感謝をささげ祝うことが重要であるとの考え方から、現代では、数え年でなく満年齢で行う場合も多い。出雲大社に神が集まるとされる、神在月(他の地方では「神無月」)に、7+5+3=15で15日となり11月15日となったと言う説もあるテンプレート:要出典が、実際には曖昧(そもそも神在月・神無月は旧暦10月のこと)。現代でも、日付こだわらず感謝をささげる儀式であるため、11月15日という目安で、その頃、自由に行われている。このように、定義が画一化されていないため、地方によって祝う年齢も異なる。尚、上方発祥の習俗としては十三詣りがあり、これも徐々に全国に広がりつつある。

由来と現状

旧暦の15日はかつては二十八宿鬼宿日(鬼が出歩かない日)に当たり、何事をするにも吉であるとされた。また、旧暦の11月は収穫を終えてその実りを神に感謝する月であり、その月の満月の日である15日に、氏神への収穫の感謝を兼ねて子供の成長を感謝し、加護を祈るようになった。明治改暦以降は新暦の11月15日に行われるようになった。現在では11月15日にこだわらずに、11月中のいずれかの土・日・祝日に行なうことも多くなっている。北海道等、寒冷地では11月15日前後の時期は寒くなっていることから、1か月早めて10月15日に行なう場合が多い。

3歳は髪を伸ばす「髪置(かみおき)」、5歳は初めて袴をつける「袴着(はかまぎ)」、7歳は、それまでの紐付きの着物に代わって、本仕立ての着物と丸帯という大人の装いをする「帯解(おびとき)・紐落(ひもおとし)」の名残りである。現代では行事に正装に準じた衣装(晴れ着)で臨み、洋服の場合もあるが和服の方が多い。少女(極稀に少年)は、この時に初めて化粧厚化粧の場合が多い)をして貰う場合が多い。奇数縁起の良い数と考える中国思想の影響もある。

変わった所では福岡県で4 - 5歳で「ひもとき」、7歳で「へこかき」(少年)/「ゆもじかき」(少女)(いずれもふんどし湯文字といった成人仕様の下着を初めて身につける)を行う地区がある。

埼玉県千葉県茨城県南部地方では、七五三のお祝いをホテルなどで結婚披露宴並に豪華に開催する場合もある。

近世までの日本は、現在の開発途上国と同様の状況(栄養不足・健康への知識不足・貧困など)が原因で乳幼児が成人するまでの生存率はきわめて低く、そのようなことから乳幼児の生存を祝う節目として定着した。男児が女児よりも早く祝うのは後継者としての意味合いもあるが、医療技術が発達する現代までは女児よりも男児の生存率が低かったためである。また、3歳=言葉、5歳=知恵、7歳=歯を神から授かることを感謝とする地方や、3歳、5歳、7歳は子供の厄として、七五三を一種の厄祓としている地方もある。

障害者を間引くための期間でもあり、「七歳までは神のうち」[1]という考え方と結びついていた。また、これに逆らう家の子は神隠しとして処理された。

近代以前は疫病栄養失調による乳幼児死亡率が高く、数えで七歳くらいまではまだ人としての生命が定まらない「あの世とこの世の境いに位置する存在」とされ、「いつでも神様の元へ帰りうる」魂と考えられた。そのため、一定の成長が確認できるまでは、人別帳にも記載せずに留め置かれ、七歳になって初めて正式に氏子として地域コミュニティへ迎え入れられた。また、胎児・乳幼児期に早世した子供は、境い目に出て来ていた命がまた神様の元に帰っただけで、ある程度の年数を生きた人間とは異なり現世へのしがらみが少なく速やかに再び次の姿に生まれ変わると考えられていて、転生の妨げにならぬよう、を建てたりする通常の人間の死亡時より扱いが簡素な独特の水子供養がなされたりした。

そうした生命観から、乳幼児の間引きとともに堕胎も、「いったん預かったが、うちでは育てられないので神様にお返しする」という感覚があった。特に、飢饉時の農村部の間引きや堕胎は、多数の子供を抱えて一家が共倒れで飢えるのを回避するために、養う子供の数を絞るのはある程度やむを得ない選択という面もあった。

神社や寺への参拝が慣例となっているが、このような伝統に配慮してキリスト教教会でもこの時期に七五三のお祝いを行うところがある。ただしキリシタン時代の宣教師たちは、間引きに対して殺人であるとして、強く非難していた。

千歳飴

七五三では、千歳飴(ちとせあめ)を食べて祝う。千歳飴は、親が自らの子に長寿の願いを込めて、細く長くなっており(直径約15mm以内、長さ1m以内)、縁起が良いとされる紅白それぞれの色で着色されている。千歳飴は、鶴亀(つるかめ)や松竹梅などの縁起の良い図案の描かれた千歳飴袋に入れられている。

千歳飴は、江戸時代元禄宝永の頃、浅草の飴売り・七兵衛が売り出したのが始まりとされている。

製法

千歳飴の製法には地方ごとに形状や色が異なる。

関東の千歳飴は水飴砂糖を材料とし、の中で140程度の熱に達するまで煮詰めたのち鍋から取り出して平たく展ばして冷却する。硬化しはじめて柔らかい塊状にまとまった飴に均等に空気を混ぜるために飴の塊を棒に引っ掛け、引き伸ばしながら何層にも折り返す製白機と呼ばれる機械に掛ける。この工程により透明の飴に中に無数の空気の細い隙間が生じ乱反射して白く見えるようになり、千歳飴独特の舌触りの食感が生まれる。触ると火傷するほど熱を帯びた飴の塊を製白機から外し、手または機械で細長く伸ばし、平たい台の上で転がして均等な太さに成形し、適当な長さで切り口が欠けないように包丁を用いて叩くようにして切断する。伝統や格式を重んじる菓子屋では以上の手順を経て作った千歳飴を神社に納め、お祓いを受けてから店頭に並べる。

このほか不二家ではミルキーを棒状にしたものを「千歳飴」として毎年この時期に発売している。

その他

  • 七五三という語呂合わせを用いて、いくつかの数列を覚えるのに使われている。
    • 日本の国旗で慣例的に用いられる縦横比が7:10、日章の直径は縦の5分の3のため、主に戦前の世代では国旗を自作するにあたってその比率を「七五三」と覚えたという。
    • 最大角度を120度とする5:3の辺の長さを持つ三角形の残りの辺は7となる。3:4:5の直角三角形に対し、こちらは「七五三の三角形」と呼ばれる。余弦定理の例題として用いられる。
  • 日本における地名のひとつとして、七五三と書いて「しめ」と読むことがある。
  • 七五三縄「しめなわ」と読むことがあり、実際に注連縄の藁を、七束、五束、三束と垂らす型がある。主に祭事の結界として利用する。
  • 七五三では千歳飴の他に風船がもらえることが多い。

脚注

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外部リンク

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  1. 英訳すれば"before seven, among the gods"などとなる。例:テンプレート:Cite bookテンプレート:Cite bookテンプレート:Cite bookテンプレート:Cite book