ロイド・ベンツェン

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テンプレート:Infobox officeholder ロイド・ミラード・ベンツェンJr.Lloyd Millard Bentsen,Jr. 1921年2月11日 - 2006年5月23日)は、アメリカ合衆国政治家連邦下院議員(1949年 - 1955年)、連邦上院議員(テキサス州選出、1971年 - 1993年)。上院では上下両院合同の経済問題委員会の委員長(1983年 - 1985年)、金融委員長(1987年 - 1993年)を歴任。1988年には民主党副大統領候補に指名される。クリントン政権では財務長官1993年 - 1994年)を務めた。

生い立ちおよび軍歴

ベンツェンはテキサス州ミッションで生まれる。彼の祖父母はデンマークからの移民であった。幼少時はボーイスカウトイーグルスカウト賞を受賞している。彼は1942年にテキサス大学法律学校を卒業し、1942年から1945年までアメリカ陸軍航空隊で軍務に就く。ブラジルでの短期勤務後にパイロットとなり、1944年前半に第449爆撃隊に所属、B-24に搭乗しイタリア南部へ出撃している。彼は23歳で少佐に昇進、600名の部隊を指揮した。

18ヶ月にわたる従軍の中で、彼は35の危険なミッションを遂行した。それらは困難で、基地から遠く離れておりなおかつ高度に防衛された拠点をターゲットにしたものであった。その中にはドイツの戦略上重要であったルーマニアのプロエスティ油田が含まれている。第449爆撃隊が属していた第15空軍は大陸におけるドイツの陸上部隊の燃料の半分以上を賄うこの地域の石油関連施設を破壊する目的で創設されたためである。

また彼の部隊はドイツ・イタリア・オーストリアチェコスロヴァキアハンガリー・ルーマニア・ブルガリアにある通信基地、航空機製造工場、産業拠点などを爆撃した。また連合国軍のアンツィオ上陸作戦南フランス上陸作戦を援護するために数多くの爆撃を行った。陸軍航空隊に所属していた時期に、彼は全ヨーロッパで行われたおよそ200の爆撃作戦に参加した。

ベンツェンは空軍殊勲十字章を授けられた。これは当時の陸軍航空隊(現在のアメリカ空軍)にあって、傑出した行動、功績を残したパイロットに与えられる最高の栄誉のひとつである。これに加えて、航空勲章を授けられている。退役を目前にして、彼は大佐に昇進した。

政界での経歴

戦後、ベンツェンは故郷のリオ・グランデ谷地方へ戻った。1946年にはヒダルゴ郡の判事に就任。ただしこの職務は裁判官というよりは郡政委員会の長であり、行政官に近いものであった。1948年には下院議員選挙に立候補。連邦下院議員を3期6年務めた。1954年の選挙では立候補せず、ビジネス界に入る事になる。

16年間にわたって、ベンツェンはヒューストン金融業界に深く関わった。1970年まで投資信託企業、リンカーン・コンソリデイティッドの社長を務めた。1970年、現職のラルフ・ヤーボロー上院議員に挑戦し、民主党予備選に立候補する。比較的保守派であると思われていたベンツェンがリベラル派で知られたヤーボローの対立候補として、民主党内の保守派・穏健派に担がれたかっこうとなった。これに先立ち、彼は全ての経営者としてのポストを辞任する事となる。予備選で勝利したベンツェンは本選挙で共和党候補のジョージ・H・W・ブッシュ元下院議員と争った。彼は巧みなメディア戦略とコミュニケーション能力で、相手より信頼が置けまた大人物だと有権者に思わせることに成功した。一方ブッシュはこうした戦略や技術の面で劣っていた。この結果、ベンツェンは勝利を収める事ができた。

1976年1982年1988年と、ベンツェンは大差で再選された。1988年には民主党の副大統領候補に指名されたが、上院議員選挙にも立候補して両方での当選を目指した。これは、1960年リンドン・ジョンソン上院議員が副大統領候補に指名された際に上院議員としても再選を目指した先例に倣ったものである。

上院議員としてベンツェンは中道のスタンスを取った。女性の権利を支持し、人工妊娠中絶や男女平等憲法修正条項(ERA)に賛成した。またヴェトナム戦争については終始これを支持した。経済政策の分野ではビジネス界の利益を擁護し、リベラル派から見れば大企業側に立った。上院金融委員会で大いに活躍し同委員会を代表する大物議員であると言えた。最終的には委員長も経験した。さらに、通商政策ではアメリカの経常赤字貿易赤字に対して敏感であり80年代の議会で対日強硬派の一翼を担った。1975年から1976年にかけては大統領選挙の民主党予備選に向けて指名獲得のために奔走した。このキャンペーンは有力候補の1人、ヘンリー・M・ジャクソン上院議員の票田を財界、金融界において侵食した。しかし、全国的な候補者としては脱落し、党大会では地元テキサス州の支持を得たもののジミー・カータージョージア州知事に敗れた。

副大統領候補

1988年の大統領選挙で、ベンツェンは民主党の副大統領候補に指名された。大統領候補が北東部出身のリベラル派、マイケル・デュカキスマサチューセッツ州知事であったために南部出身で中道派のベンツェンがバランスをとるために選ばれたのである。また、多数の選挙人を抱えるテキサス州での勝利を確実にする狙いもあった。しかしながら、この目論見は見事に外れた。多くの人々は、ベンツェンを副大統領候補に選んだ事がデュカキスの敗因の一つであると考えている。これはベンツェンの方がデュカキスよりも遥かに政治家としてのキャリアがあり、経験を積んでいたからである。ベンツェンの方がより大統領候補らしいという強烈な印象を与え、大統領候補であるはずのデュカキスを霞ませてしまったのである。ウェストヴァージニア州の選挙人の1人は、デュカキスに投票するはずのところベンツェンに投票した。

共和党副大統領候補のダン・クエール上院議員との副大統領候補討論会はテレビで放映され、その中の以下のやり取りは有名となった。

クエール「ジャック・ケネディが大統領を目指した時彼が議員として積んだ経験とほぼ同等の経験を、私は議会の中で積んでいる。」

ベンツェン「上院議員、私はジャック・ケネディの同僚だった。ジャック・ケネディを知っている。ジャック・ケネディは私の友人だったのだ。上院議員、あなたは断じてジャック・ケネディではない。」

これは当時41歳のクエールはまだ若く、経験不足だと指摘されていた。その批判をかわすためやはり若く、経験の浅かったケネディを引き合いに出したのだが、ベンツェンはこれを見事にかわしたのだった。選挙の結果はブッシュ - クエール陣営の地滑り的勝利に終わった。他方、ベンツェンは地元テキサス州での勝利をデュカキス陣営にもたらす事はできなかった。これはクエールの地元インディアナ州でブッシュ陣営が大差で勝利したのとは対照的であった。

その後の経歴

1993年、ベンツェンは上院議員を辞し、クリントン政権の財務長官に就任した。ベンツェンの指名は後に民主党から非難される事になる。何故なら結果として民主党の議席を共和党のケイ・ハッチソン前下院議員に明け渡す事となったからだ。ベンツェンは1994年に財務長官を辞任したため、その任期は結果として短いものに終わった。従って、財務長官として際立った功績を挙げたわけではない。しかし、クリントン政権として最初の予算案を審議が難航する中議会で成立させるのに最大限の努力を払った。日本との関係では、円高誘導発言をした事で知られる。この発言はその後急激な円高・ドル安を招いた原因のひとつとされる。

1998年に発作に襲われ、以後は車椅子生活を余儀なくされる。しかしその後も、1999年には文民としての最高の栄誉である大統領自由勲章を受章し、2004年にはホワイトハウスにおけるクリントン夫妻の肖像画の除幕に参加するなど公式の場に姿を見せた。2006年、ヒューストンの自宅で死去、85歳であった。

国道59号線のうち州間高速道路35号と州間高速道路45号の間の270マイル(ラレド~ヒューストン間)はロイド・ベンツェン上院議員ハイウェイと公式に名づけられた。甥のケン・ベンツェンjrはテキサス州25区選出の連邦下院議員を1995年から2003年まで務め、2002年には民主党の上院議員候補となった。孫のロイド・ベンツェン4世は2004年の大統領選挙ジョン・ケリー上院議員のスタッフを務めた。

参照

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外部リンク

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