レッドパージ

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レッドパージred purge)は、連合国軍占領下の日本において、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)総司令官ダグラス・マッカーサーの指令により、日本共産党員とシンパ(同調者)が公職追放された動きに関連して、その前後の期間に、公務員民間企業において、「日本共産党員とその支持者」と判断された人びとが次々に退職させられた動きを指す。1万を超える人々が失職した。「赤狩り」とも呼ばれた。

概要

第二次世界大戦終結後、GHQ/SCAPは日本の民主化を推進し、日本共産党も初めて合法的に活動を始めたが、その結果、労働運動が激化し、中国大陸の国共内戦で共産主義勢力が優勢になると弾圧する方針に転じた。冷戦の勃発に伴う、いわゆる「逆コース」である。

連合軍総司令部民間情報局教育顧問のW.C.イールズが1949年7月19日新潟大学の講演で「共産党員の教授は大学を去るのが適当」と演説し、以降各地の大学で同様の演説を行った(イールズ声明)。

1950年5月3日、マッカーサーは日本共産党の非合法化を示唆し、5月30日には皇居前広場において日本共産党指揮下の大衆と占領軍が衝突(人民広場事件)、6月6日徳田球一ほか日本共産党中央委員24人、及び機関紙「アカハタ」幹部といわれた人物を公職追放、アカハタを停刊処分にした。同年7月には9人の共産党幹部について団体等規正令に基づく政府の出頭命令を拒否したとして団体等規正令違反容疑で逮捕状が出た(逮捕状が出た9人の共産党幹部は地下潜行し、一部は中国に亡命した)。

こうした流れのなかで、7月以降はGHQの勧告により、報道機関や官公庁や教育機関や大企業などでも共産系の追放(退職)が行われていった(なお、銀行業界では共産系の追放が最小限度に留まった例や、大学では共産系の追放が殆ど行われなかった例もあった)。当時の日本共産党は1月のコミンフォルム批判(平和革命論を否定)により、徳田を中心とする「所感派」と宮本顕治を中心とする「国際派」に分裂した状態だったこともあり、組織的な抵抗もほとんどみられなかった。この間の6月25日には朝鮮戦争が勃発し、「共産主義の脅威」が公然と語られるようになった。

公職追放の指令それ自体は1952年サンフランシスコ平和条約の発効とともに解除された。職場でレッドパージを受けた一般の労働者で復職できたものはほとんどおらず、またレッドパージを受けたことがわかると再就職先にも差し支える状態であったといわれる[1]

なお、1950年にはアメリカ合衆国でも共産主義者の追放(マッカーシズム)が行われた。この一連の動きも含めた全てをレッドパージと呼ぶ場合もある。詳細は赤狩りの項を参照

裁判

また、雇用主を相手取った訴訟は、主権回復前の1952年4月2日の共同通信事件の最高裁決定で公的報道機関に対するレッド―パージが、そして主権回復後の1960年4月18日の中外製薬事件の最高裁決定でにもその他の重要産業に対するレッドパージが、いずれも「GHQの指示による超憲法的な措置で解雇や免職は有効」として原告敗訴となり、以降の関連訴訟の判決の判例となっている。

1950年に電気通信省旭硝子川崎製鉄で追放解雇・免職にされた3人が、思想・良心の自由に対する侵害であるとして2004年に人権救済を申し立てた事をきっかけに、2008年現在、70人により同様の申し立てがされている。なお3人については2008年、日本弁護士連合会より救済勧告、後に神戸地方裁判所国家賠償を求める訴訟を起こす。原告側は「公共的報道機関や民間重要産業でのレッド・パージについてGHQは示唆したが指示まではおらず、日本政府が主導した」と主張したが、裁判所はこの主張について「示唆と受け取れるGHQ文書もあるが、実際はGHQの指示で日本政府には従う義務があった」とし、その上で「レッドパージはGHQの指示による超憲法的な措置で、解雇や免職は有効」と従来の判例を踏襲して2011年5月26日に請求を棄却。二審の大阪高等裁判所も、2012年10月24日に控訴棄却、2013年4月25日に最高裁判所第一小法廷にて上告不受理決定し判決確定)。2010年にも長崎県の7人について、同県弁護士会からの救済勧告が出た。

日本共産党は神戸訴訟上告棄却・不受理について「日弁連も勧告を出しているように、日本国憲法第19条が保障する思想・良心の自由を蹂躙する人権侵害であり極めて不当なもの」とする抗議談話を発表した[2]

原因

GHQ/SCAPの民主化政策により、社会主義を背景にした労働運動が激化したが、これによって日本共産党の勢力が伸びていた。1949年1月の第24回衆議院議員総選挙では日本共産党が35議席を獲得した。そうしたなかで、1949年(昭和24)の下山事件三鷹事件松川事件といういわゆる国鉄三大ミステリー事件が、日本共産党と国鉄労働組合が仕組んだという陰謀説が流布されたため、日本共産党・共産主義者排斥を容認する風潮が作られた。

脚注

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関連項目

外部リンク

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  1. 松本清張『日本の黒い霧』
  2. レッド・パージ国賠訴訟 最高裁が上告棄却 原告ら 「救済までたたかう」 しんぶん赤旗2013年5月1日