ラングーン事件

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テンプレート:出典の明記 ラングーン事件(ラングーンじけん)は、1983年ビルマラングーン(現ミャンマーヤンゴン)で発生したテロ事件。「ラングーン爆破テロ事件」、「アウン・サン廟爆破事件」などとも呼ばれる。

事件概要

事件は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の工作員により、ビルマを訪問中であった大韓民国(韓国)の全斗煥大統領一行の暗殺を狙って引き起こされた。韓国では「ボマ事件버마사건)」とも呼ばれている(「ボマ」はビルマの朝鮮語読み)。

1988年ソウルオリンピック開催を目指していた韓国は、北朝鮮と親密だった非同盟中立諸国に閣僚を派遣し、韓国でのオリンピック開催や、その際の参加を熱心に説得して回っていた。1982年8月に行われた、アフリカ諸国歴訪をはじめとする一連の歴訪は、最悪の場合は北朝鮮を外交的に孤立させてしまうものであり、金日成主席を非常に苛立たせていた。この際、金日成は全斗煥の暗殺を計画するも、ソ連ブレジネフ政権が北朝鮮に圧力をかけ、中止することとなった。

しかし、1982年11月にブレジネフが亡くなり、対アメリカ強硬派であるユーリ・アンドロポフソ連共産党中央委員会書記長に就任し、北朝鮮に有事の際の積極的支援を約束すると、金日成は偵察局第711部隊に命じ、全斗煥の暗殺を実行し、韓国国内で共産革命が起きるか、韓国軍が挑発してきた場合南侵するといった計画を立案した。計画の立案は、金日成の長男である金正日であるといわれているテンプレート:誰2。また総指揮は、金正日の義弟で側近の張成沢の長兄にあたる張成禹が取ったとされている[1]

作戦の実行が決定され、1983年10月に、チン・モ少佐とカン・ミンチョル上尉およびキム・チホ上尉の3人がラングーンへ入り、大統領一行が訪れるアウン・サン廟の屋根裏に遠隔操作式のクレイモア地雷を仕掛けた。

全斗煥大統領一行は、1983年10月8日夕方、南アジア太平洋地域6か国(インドスリランカオーストラリアニュージーランド等)歴訪の最初の訪問国であるビルマのラングーンに到着し(韓国の大統領としては初めてのビルマ訪問)、サン・ユ大統領らの出迎えを受けた。翌日の10月9日、大統領一行はアウン・サン廟へ献花に訪れようとした(ビルマを訪問する国賓は日程の最初に霊廟へ参拝するのが恒例となっていた)。

同日午前10時25分(現地時間)に、一歩先に現地に到着した韓国の駐ビルマ特命全権大使の車を、全斗煥大統領の車と間違えた実行犯による遠隔操作によって廟の天井で爆発が起こり、21名が爆死(韓国側は副首相や外務部長官ら閣僚4名を含む17名、ビルマ側は閣僚・政府関係者4名)、負傷者は47名に及んだ。全斗煥自身は、乗っていた車の到着が2分遅れたため、危うく難を逃れた。

事件当日の午後には、大統領外国訪問中の留守を任されている形であった金相浹総理によって緊急閣議が招集され、軍と警察に非常警戒令を発令するとともに、北朝鮮の組織的な陰謀であると主張。外遊中の大統領一行は訪問日程をキャンセルして帰国した。対して北朝鮮側は、韓国が北朝鮮を陥れるために起こした自作自演の事件であると反発し、朝鮮半島は一触即発の状態になった。

また、日本やアメリカ等では実行犯に関して、当初は韓国の反政府組織説やビルマ国内のカレン族等の少数民族説、ゲリラ展開を続けるビルマ共産党説、またネ・ウィン前大統領に次ぐナンバー2と目されながら、当時失脚したばかりのティン・ウ准将の支持グループ説等、様々な憶測が飛び交っていた。

ビルマ警察の調査と追跡により、北朝鮮工作員3名は追い詰められ、銃撃戦の末に逮捕された。キム上尉は射殺され、チン少佐とカン上尉が重傷を負った。2人は警察に対して作戦の全貌を自供し、11月4日にビルマ政府は犯行を北朝鮮によるものと断定して[2]、3人の朝鮮人民軍軍人を実行犯として告発した。ビルマは裁判において朝鮮語英語を用いて北朝鮮人である被疑者への裁判の理解力を確かめる努力をしたり、北朝鮮の外交使節や外国メディアにも公開した裁判などで国際社会の信頼を得られ、当時名高い非同盟中立国であったビルマによる、北朝鮮による犯行という結論は国際的に認知された。

事件当時、ビルマは南北等距離外交を行っていた。ラングーンには双方の大使館があったが、ビルマは南北両朝鮮には大使館は設置せず、北朝鮮への大使は駐中ビルマ大使が、韓国への大使は駐日ビルマ大使がそれぞれ兼任していた。非同盟中立を標榜していたビルマは、北朝鮮との関係は、事件前はかなり友好的なものであった。しかし、「建国の父」であるアウンサンの墓所をテロに利用するという事件の悪質性にビルマ政府は憤慨し、北朝鮮との国交を断絶するのみならず国家承認の取り消しという厳しい措置を行った[3]。その後両国の国交が回復する2007年まで24年の歳月を要した。

死亡者

韓国側の死亡者

実行犯の自白

テ・チャンス司令官(北朝鮮の開城地区特殊工作部隊)の命令によって、以下の3人から成る暗殺班が組織された。

  • チン・モ少佐(逮捕)
  • カン・ミンチョル上尉(逮捕)
  • キム・チホ上尉(ビルマ警察との銃撃戦で射殺)

暗殺班は、9月9日に北朝鮮の貨物船・東健号で、甕津港を出港。9月16日にラングーン港へ到着。9月17日から24日までラングーン港内に停泊。ラングーン港到着後、在ビルマ北朝鮮大使館のチョン・チャンヒ参事官宅に匿われる(この参事官は、11月上旬に、ビルマの対北朝鮮断交で帰国)。

アウンサン廟に爆弾をしかけたのは、10月7日夜10時頃で、指揮官のチン少佐が見張りにあたり、カン上尉が廟の屋根にのぼり、キム上尉から爆弾を手渡されて設置した。事件当日、アウンサン廟に近いウィザヤ映画館附近で爆弾の遠隔操作によって実際に爆発させたのは、指揮官のチン少佐であった。

東健号(東建愛国号)問題 

北朝鮮軍特殊工作員兵士3名をビルマに送り込んだ東健号は朝鮮総連に所属する兵庫県商工会会長文東建が日本の高知県で建造し昭和51年(1976年)に北朝鮮本国に寄贈し、金日成から直接に「東建愛国号」と名付けられた貨物船である。 この寄贈により文東建は北朝鮮最高勲章の一つである金日成勲章を授章し、後に全演植モランボン創業者)と共に在日商工人から初の朝鮮総連副議長となった。当時、朝鮮総連議長ですら成し得なかった金日成と文東建のツーショット写真が北朝鮮の日本語宣伝雑誌に掲載され在日朝鮮人社会に大きな衝撃を与えると共に、それが金の力で地位を買えるという事実を知らしめる結果となって日本国内から北朝鮮の軍事独裁体制を支え続ける送金の始まりとなった。 ラングーン事件が起きた後に『週刊朝日』1983年11月4日号が兵士をビルマに運んだ船が文東建の寄贈船と報じると、文東建は「そんな事実は無い」と否定し、週刊朝日を名誉毀損で神戸地裁に訴えたが、裁判開始直後に文は死亡し裁判はうやむやになった。

その後の変遷

チン少佐は死刑判決を受け1985年に執行。カン上尉は犯行を自供したため終身刑に減刑された。カン上尉は1990年代後半から心情の変化を生じ、刑の規定などで釈放されることがあれば韓国行きを希望すると述べたが、実現することはなかった[4]

2006年4月にはミャンマーが北朝鮮の外交関係を将来、全面回復することを実務者レベルの協議で合意。2007年4月26日、北朝鮮側の代表である金永日外務次官とミャンマー側代表チョー・トゥ外務次官の間で正式に合意文書が署名され、24年ぶりに国交を回復。合意の背景には、近年の両国に対する国際的非難を牽制する狙いがあったとされている。

2008年5月18日、カン上尉が肝臓癌のためヤンゴン近郊の刑務所にて死亡したと発表された。これによって、実行犯全員が死亡した。また総指揮を取ったとされた張成禹も、2009年8月に死去したことが判明した[1]

脚注

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関連項目

外部リンク

  • 1.0 1.1 テンプレート:Cite news
  • ラングーン事件に関する内閣官房長官談話」(1983年11月7日) 日本政治・国際関係データベース
  • ロイター 2006年4月10日
  • ラングーン爆弾テロ工作員「北に騙された」 朝鮮日報 2003年9月24日付