ラブパレード

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ラブパレード (LOVE PARADE) は、毎年7月にドイツ(当初はベルリン)で行われていた世界最大規模のレイヴである。

ベルリン市内の6月17日通りを行き来する多数のフロート(サウンド・システムを積んだトレーラー)を中心に参加者が踊り、練り歩く。終盤には戦勝記念塔下に皆が集結し、ファイナルギャザリングでのDJプレイでクライマックスを迎える。「パレード」の名の通り、本来は政治的デモ行動として行政当局にも開催を認められていた。

日本からはドイツ・テクノシーンと関係の深い石野卓球などがDJとして参加しており、特に石野は1998年にはパレードのフィナーレを飾るベルリン戦勝記念塔の広場(テンプレート:仮リンク)でのファイナル・ギャザリングでもDJプレイしている。

また近年では、名称がライセンスされ世界各地でラブパレードの名を冠したイベントが開催。ベルリンにおいては開催時期に「ラブウィーク」と称して多数のパーティ・イベントが行われる他、サンフランシスコでは2004年から「ラブフェスト」、「ラブエボリューション」と称して開催。またシドニーリーズメキシコシティサンティアゴロッテルダムカラカスなどでも公式イベントが開催されている。

経過

開始は1989年。当初はDJである Dr. Motte により始められた150人程の小さなパレードであったが、毎年参加者が増え続け、ピークの1999年には国内外から最高の150万人を動員した。しかしその反面、現在ではもはや単なる商業的・観光的イベントになったという批判もあり、パレード終了後の膨大なゴミ問題なども深刻化。行政当局もデモではなく商業イベントという判断から開催費用捻出を拒否するようになり、2004年には資金難を理由に中止を余儀なくされた。その後、2005年も開催を見合わされたが、フィットネス事業などを手がける McFit 社をメインスポンサーに迎え "The Love is back and alive!" をキャッチコピーに2006年7月15日に3年ぶりに開催された。

2007年はベルリン市が開催を認めなかったため、代わりの開催都市が求められた。以前からエッセンを初めとするルール地方が、交通インフラが整備されているので開催が可能だとアピールしていた。そこで、2007年から2011年までの5年間は、ルール地方主要都市で、毎年待ちまわりで開催されることとなった。まず2007年エッセンで、都心近くのベルリーナー広場一帯で120万人を集めて行われた。2008年は、ドルトムントで連邦国道1号線を閉鎖して行われ、160万人という過去最高の人出があったと発表されている。2009年ボーフムが予定されていたが、開催が見送られた。適切な場所がないことも問題であったが、主たる理由は、駅の処理能力が予想される人出に対して不十分なことだと説明されている。2010年についてはデュースブルク開催が予定されていたが、市の財政難で危ぶまれた。そこで、開催を支援するスポンサー探しや募金活動が行われた結果、ようやく2010年4月に州が開催に青信号を出した。しかし、このデュースブルクで死傷事故が生じたため、今後は開催しないことが主催者から発表された。

2010年の死傷事故

2009年の中止を経て、2010年7月24日デュースブルクの旧貨物駅用地でラブパレードが開催された。しかし、現地時間 17:00 頃、入場口とされていたトンネル出口にあるランプ(斜面)に人があふれて倒れる人も生じ、圧迫によって21人が死亡、500人以上の負傷者を出すという惨劇が発生した。なお、日本では、明石花火大会歩道橋事故と同じく、「将棋倒し」が原因だという報道も行われている。しかし、現地ではそのような報道は行われていない。

すでに入場している客の混乱を防ぐため、イベントは現地時間 23:00 頃まで続行された(予定では 24:00 終了)。事故の発生を聞いて途中退場する客もいたものの、一斉に退場してさらなるパニックを呼ぶという事態は防げたといえる。

この年初めて、27台のカメラを使ってYouTubeustreamで世界中のファンに向けてライブストリーミングが行われた。しかし、事件が伝わった現地時間 18:00 前後(日本時間 01:00 頃)にストリーミング中継は全て切断され、公式サイトには、"Our wish to arrange a happy togetherness was overshadowed by the tragic accidents today.(幸福な結束をもたらさんとする我々の願いは、今日の悲劇により絶たれた)"というコメントと、家族や友人の安否を確認するためにデュースブルク市が設置したホットラインの番号が掲載された。またtwitterでも、名前を出して「探して欲しい」「助けて欲しい」という投稿が多く見られた。西ドイツ放送が行なっていたライブ中継番組は、そのまま被害速報番組へと変わり、イベントTシャツを着たアナウンサーが神妙な顔で現地中継を行なった。

事故の原因と責任の所在については、捜査が進行中である。これまで明らかにされている情報を整理すると、主催者側が会場整理の時間を確保するため、警察にランプにあった入口の一時閉鎖を依頼し、同時にトンネルに入る人を止めることになっていたにもかかわらず、トンネル内に東西から人が流入し、ランプ部分に滞留して圧力が高まったことが事故を招くこととなった。このような事態が生じた責任については、主催者、警察とデュースブルク市とも、認めようとしていない。なお、入場者数については、当初に140万人と発表されたが、事故の後に、約3倍に水増しして発表していたことが、主催者から明らかにされている。(詳細は以下のリンクを参照のこと)

2011年はザグレブでの開催を予定、2012年以降の開催については未定であったが、この惨事を受け、ラブパレードの永続的な中止が主催者から発表された。

7月31日、デュースブルク市で、犠牲になった21人の追悼式典が開かれた。アンゲラ・メルケル首相らが出席したが、この惨事の責任を問われているテンプレート:仮リンク市長や、今回の主催者であり、今後のイベント中止を発表しているテンプレート:仮リンクは欠席している。事件から約2ヶ月が経過した9月30日に、この事件に関する損害賠償を求める初の訴訟が提起されているが、その被告は主催者の Lopavent 社と代表のシャラーである。

事件に関するリンク

外部リンク