モンロビア

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モンロビア(Monrovia,モンロヴィアとも)はアフリカにあるリベリア共和国首都で、人口は1,010,970人(2009年)。大西洋メスアルド川に囲まれた場所にある港湾都市である。北緯6度19分、西経10度48分に位置する。

モンロビアはリベリア最大の都市であり、同国の政治、経済、金融の中心である。リベリア内戦で攻撃を受けており、いくつかのビルが破壊された過去がある。同市の港は多数の船舶やドックを有しており、ゴム、鉄などを海外へと輸出している。観光地としては、リベリア国立博物館(Liberian National Museum)、マゾニック寺院(Masonic Temple 倒壊している)、ウォーターサイド市場(Waterside Market)など、教育施設に1862年設立の国立リベリア大学米国聖公会の機関であるカッティントン大学などがある。空港は、市内から60キロ離れたロバーツロバーツ国際空港がある。この空港は第二次世界大戦中にアメリカが建設した空港である。

リベリアは便宜置籍国として有名だが、その場合の船籍港はほとんどの場合モンロビア港となる。

歴史

1560年代にポルトガル人航海士によってこの地域がメスラド岬(Cape Mesurado)と名付けられた時、既に先住民のクルー族などの部族が居住していた。 アメリカ人解放奴隷が自給自足できる、既存のフリータウンのような植民地を設立することを目的とし、アメリカ植民地協会の支援により、1821年にアメリカ合衆国からの最初の居住者がアフリカに到着した。同協会のロバート・ストックトンがクルー族の首長ピーター王との銃などの品物交換の交渉(と言うよりもストックトンはピーター王に銃で脅して売買しようとしていた)でモンロビアとなる土地を手に入れ、アメリカの解放奴隷の黒人達が現地のプロヴィデンス島(Providence Island)(現在のシエラレオネ)に初上陸した。入植事業は困難を極め、多くの居住者が亡くなった。1822年、第2陣の船が先の居住者を救出し、彼らをメスラド岬に運び、クリストポリス居住区を創設した。1824年、アメリカ大統領のジェームズ・モンローにちなみ、居住区の名前がモンロビアに変更される。アフリカ系アメリカ人解放奴隷をリベリアに搬送したこの植民の有力な支援者達は、アメリカ大陸で奴隷を解放するよりも、アフリカ大陸へ入植させる方が好ましいと感じた。尚、アメリカ合衆国以外の国の首都名が、アメリカ大統領の名前にちなんでいるのはモンロビアだけである。 1845年、モンロビアは、2年後に独立国リベリア共和国の憲法とる草案を作成したアメリカ植民地協会が主催した憲法制定会議の場所となった。

地理

気候

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姉妹都市

脚注

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外部リンク

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