マラボ

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マラボの聖イサベル大聖堂

マラボMalabo)は、ギニア湾に浮かぶビオコ島に位置する、赤道ギニア首都[1][2]。同島北部の沿岸部に位置し、人口は1995年時点で3万人であったが、後述する石油ブームにより現在は20万人近くに増加したとされる。

都市形成

1827年スペインよりこの地を貸し与えられたイギリス人によりポート・クレランスと名付けられ、海軍基地や奴隷貿易の取り締まり拠点となっていた。解放奴隷には現在のシエラレオネの首都フリータウンへの移住権が与えられていたが、ギニア湾東部で解放奴隷となった人々はこぞってポート・クレランスに居住し、次第に都市が築き上げられていった。

やがてビオコ島の統治権がスペインに戻ると、ポート・クレランスはサンタ・イサベルと改称された。1968年10月12日ビオコ島は大陸部のムビニと共に赤道ギニア共和国として独立、1969年には首都機能がムビニの最大都市バタからサンタ・イサベルに移された。マシアス・ンゲマ初代大統領が進める改名運動に基づき、1973年現在の名称であるマラボとなった。この改名運動とは、植民地統治下で名付けられたヨーロッパ式の名称を、アフリカ式の名称に戻す、というものであり、マシアス・ンゲマが進めた重要政策の1つであった。

アフリカのアウシュヴィッツ

ファン族出身であるマシアス・ンゲマ大統領は、恐怖政治とも言うべき強権的独裁体制を敷き、ビオコ島の多数派(赤道ギニア全体では少数派)であるブビ族の迫害・虐殺を行う。1979年にマシアス・ヌゲマ政権は甥のテオドロ・オビアン・ンゲマ中佐率いるクーデターにより崩壊するのだが、マシアス・ンゲマ治世の末期には、「赤道ギニアはアフリカのアウシュヴィッツと化した」といわれるほど、政権の残虐性が露呈していた。その拠点である首都マラボは、まさに恐怖の象徴であった。

現在のマラボ

1992年にビオコ島沖で油田が発掘されて以来、マラボはギニア湾の石油拠点として急速に発展を遂げることとなる。マラボ近くの沖合にある巨大油田ザフィーロ油田で、米国のモービル(現在のエクソンモービル)が原油生産を開始。赤道ギニア全体で1997年の成長率が71%という驚異的な数値が記録されるなど、現在に至るまでマラボは石油ブームに沸いている。それに比例し、各種企業や外国からの移民が相次いでマラボに集中するようになり、都市規模が拡大。石油輸出のために港湾施設も整備され、ギニア湾東部における交通拠点ともなり始めている。

だが、この石油ブームの恩恵にあずかっているのは大統領一族と一部の政府高官、そして富裕層だけであり、貧富の差が劇的に広がっているのも事実である。マラボ住民の大半は一日2ドル以下で生活する極貧層であり、スラムの形成から犯罪の増加も懸念されている。

都市景観

マラボ市内で特に目立つ建造物は、マラボ大聖堂最高裁判所である。また、国際空港マラボ国際空港)や沿岸部の港湾施設は、石油ブームにより近代的なものに整備され、都市全体の近代化も進みつつある。だが一方でスラム街の広がりも顕著で、富裕層の居住区とは明確な一線を画している。

姉妹都市

脚注

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外部リンク

  1. Malabo-Islamic Finderテンプレート:En icon,2012年1月18日閲覧。
  2. 各国・地域情勢(基礎情報)-赤道ギニア共和国(日本国外務省ウェブサイト)テンプレート:Ja icon,2012年1月18日閲覧。