ホルシュタイン=ゴットルプ家

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ファイル:Coa House of Holstein-Gottorp.png
ホルシュタイン=ゴットルプ家の紋章

ホルシュタイン=ゴットルプ家テンプレート:Lang-de-shortHaus Schleswig-Holstein-Gottorf)は、16世紀から18世紀にかけて北ドイツシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国を支配した貴族の家系。ゴットルプはシュレースヴィヒにあった居城ゴットルプ城にちなむ。18世紀に3つの家系がスウェーデンロシア、北ドイツのオルデンブルクの君主位をそれぞれ獲得し、スウェーデンでは19世紀初頭まで、他の2国では20世紀に君主制が廃止されるまで続いた。キールを首府とする公国はホルシュタイン=ゴットルプ公国とも呼ばれる。

歴史

ファイル:Adolf I. von Schleswig-Holstein-Gottorf.jpg
ホルシュタイン=ゴットルプ家の祖アドルフ

ホルシュタイン=ゴットルプ家は、デンマークの王家オルデンブルク家から分かれた。オルデンブルク家は元来、北ドイツのオルデンブルクを中心とするオルデンブルク伯領を治めていたが、1448年クリスチャン1世がデンマーク王位に就いて以来、19世紀までデンマーク王家として続いた。1544年デンマーク王クリスチャン3世が異母弟アドルフホルシュタイン公爵位を与えたのがホルシュタイン=ゴットルプ家の始まりである。

ホルシュタインは神聖ローマ帝国の領域内にあり、住民はデンマーク人だけでなくドイツ人も多く、ドイツ語が支配的な地域であった。このためホルシュタイン=ゴットルプ家は次第にドイツ化していったが、一方でオルデンブルク家嫡流からたびたび王女を妃に迎えてつながりを保った。また、スウェーデン王家(ヴァーサ家プファルツ=クレーブルク家)にも王妃を出していたが、そのためにデンマーク、スウェーデンの2国間で複雑な立場に置かれた。

スウェーデンとデンマークは共にホルシュタイン=ゴットルプ家への影響力を行使しようとし、このため北欧の両大国は17世紀半ばからシュレースヴィヒ・ホルシュタイン両公国を巡って抗争を繰り広げることとなった。シュレースヴィヒ公国はデンマークに、ホルシュタイン公国はスウェーデンの影響下に入ったが、ホルシュタイン=ゴットルプ家は両公国の主権を獲得するためにスウェーデンと同盟を結んだ。18世紀初頭の大北方戦争においてスウェーデンが敗北したため、同盟関係は打ち切られた。以後ホルシュタイン=ゴットルプ家は、大国として著しい台頭をしたロシア帝国ロマノフ家と結び付きを深めて行くこととなった。

スウェーデン王家

テンプレート:Main 第6代ホルシュタイン=ゴットルプ公カール・フリードリヒの叔父で摂政であったクリスティアン・アウグストの子アドルフ・フレドリクは、1751年スウェーデン王に迎えられ、ホルシュタイン=ゴットルプ王朝(1751年 - 1818年)を創始した。ホルシュタイン=ゴットルプ家は、1720年までのスウェーデンの王家プファルツ=クレーブルク家外戚であったが、ヘッセン家の先王フレドリク1世との姻戚関係はなかった。大北方戦争終結時にニスタット条約に調印しているが、そのためか元々は親ロシア派であった(ヘッセン家は親西欧派であり、大北方戦争以後も対立を続けていた)。

第2代国王グスタフ3世の頃は大いに国威が昂揚したが、ナポレオン戦争の最中、ロシアフィンランドを奪われるなど失態を犯し、クーデターによって1809年立憲君主制に移行した。1818年のカール13世の死後、現王家であるベルナドッテ家に代わったが、家系としてはクーデターで廃された王太子グスタフが1877年に、その娘でザクセン王妃となったカロラが1907年に死去するまで続いた。

ロシア皇帝家

カール・フリードリヒ公はロシア皇帝ピョートル1世の娘アンナ・ペトロヴナと1725年に結婚した。その子カール・ペーター・ウルリヒは子供のいないロシア女帝エリザヴェータ(アンナの妹)の養子に迎えられ、1762年にロシア皇帝ピョートル3世となった。ピョートル3世は在位1年にも満たずに、皇后エカチェリーナ2世(母はアドルフ・フレドリクの妹ヨハンナ・エリーザベト)のクーデターによって廃位され、間もなく殺害されたが、ピョートル3世とエカチェリーナ2世の間に生まれたパーヴェル1世がエカチェリーナの後を継いで、ロシアにおけるホルシュタイン=ゴットルプ家は続いた。この王朝はホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ王朝とも呼ばれるが、ロマノフ王朝の継続として扱われることが多い。

オルデンブルク大公家

ピョートル3世はホルシュタイン公も兼ねており、その死後パーヴェル(ドイツ語名パウル)が公位を継承したが、1773年にパーヴェルは、ホルシュタイン=ゴットルプ領に関する権利をデンマーク王クリスチャン7世に全て譲渡した。引き換えにパーヴェルはオルデンブルク伯領を獲得したが、ほどなく大伯父でありアドルフ・フレドリクの弟であるフレデリク・アウグスト(フリードリヒ・アウグスト1世)に伯領を譲った。翌1774年にフレデリク・アウグストはオルデンブルク公に昇爵され、オルデンブルク公国が成立した。

オルデンブルク公国はナポレオン戦争期には一時フランスに占領されていたが、ウィーン会議を経て大公国に昇格し、ドイツ連邦に加盟した。オルデンブルク公位および大公位はフレデリク・アウグストとその子ペーター・フリードリヒ・ヴィルヘルム、のちフレデリク・アウグストの甥ペーターによって継承され、ドイツ革命で君主制が廃止されるまで存続した。

ホルシュタイン=ゴットルプ家の領主・君主

ホルシュタイン=ゴットルプ公

スウェーデン王

ロシア皇帝

オルデンブルクの君主

オルデンブルク公
オルデンブルク大公

系図

ホルシュタイン=ゴットルプ家の人物は太字で示す。括弧内の数字は即位順。

系図1

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系図2

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系図3

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関連項目