ベラ・チャスラフスカ

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テンプレート:Infobox 体操選手 ベラ・チャスラフスカ(Věra Čáslavská 1942年5月3日- )はチェコスロバキアプラハ出身の体操選手。実際の発音はヴィェラ・チャースラフスカーに近い。

略歴

1964年東京オリンピックで、ベラは人気選手となる。平均台跳馬個人総合の金メダルに加え、団体でも銀メダルを手にした。優美な演技は日本において「オリンピックの名花」「体操の名花」と讃えられた。

しかし、彼女のメキシコオリンピック参加は、政治的事情のため非常に危ぶまれていた。彼女は1968年のチェコスロバキアの民主化運動(「プラハの春」)の支持を表明して「二千語宣言」に署名しており、同年8月のワルシャワ条約機構による軍事介入、プラハ侵攻によって身を隠さざるを得なかったのである。

1968年メキシコ五輪はプラハ侵攻の直後であり、彼女はオリンピック直前にようやく出国を許可された。彼女はこのとき、祖国の屈辱をはね返すために、最高の演技を誓い競技に臨んだと後に語っている。五輪本番は、抗議の意を示すため濃紺のレオタードで競技を行った。不十分な準備の中、圧倒的な強さを見せるが、ゆか競技の判定において、この政治的事情の影響か、金メダルは微妙な判定によってソビエトの選手とダブル受賞となった。種目別で唯一優勝を逃した平均台のメダル授与式においては、金メダルを獲得したソビエトのナタリア・クチンスカヤ(Natalia Kuchinskaya)の受賞の間、ベラは顔を背けることで抗議の意を示したが、後述する2008年のインタビューにおいて内心は「かわいそうだ思った」と振り返っている。最終的に跳馬、段違い平行棒ゆかと個人総合で金メダル、平均台と団体種目で銀メダルと、女子体操の6種目すべてでメダルを獲得した。

メキシコオリンピックでの競技が終了してまもなく、ベラは、東京オリンピック男子陸上1500m銀メダリストのヨゼフ・オドロジル(Josef Odložil)と結婚する。

その後もベラは「二千語宣言」への署名撤回を拒否し続けたので、チェコスロバキアの「正常化体制」時代、ベラは非常に困難な状況に置かれ続けた。1989年11月、ビロード革命によって共産党体制が崩壊すると、彼女はハベル大統領のアドバイザー及びチェコ・日本協会の名誉総裁に就任した。大統領府を辞した後には、チェコオリンピック委員会の総裁も務めている。

ベラの引退後から、女子体操界はより若年で小柄な選手たちによるアクロバット的な演技が主流となったが、ベラはこれに苦言を呈することが多かった[1]

2008年8月にはチェコ主要紙のイドネスiDNES.cz)のインタビューに応じ、同年の南オセチア紛争におけるロシアの対応を批判した。

日本とのつながり

東京オリンピックに出場した際に、日本のファンが体操競技に詳しいことに驚き、また、滞在中に多くの日本人ファンから扇子、浴衣や日本刀などをプレゼントされたことに感激したことを語っている。それらの贈り物は2013年現在でも自宅に保管してあるという[2][3]

2010年、日本国の秋の叙勲(外国人叙勲)にて旭日中綬章を受章。

日本のテレビ番組出演

著書

参考文献

  • 後藤正治 『ベラ・チャスラフスカ 最も美しく』ISBN 4163660208

脚注

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外部リンク

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  1. 1992年8月3日 朝日新聞「元女王も嘆く体操の“曲芸化”」
  2. 『64年の東京、運営完璧だった』 ベラ・チャスラフスカさん 朝日新聞 2013年9月10日付朝刊19面参照
  3. 『2020へ翔べ東京五輪上 おもてなし 日本の知恵に期待』朝日新聞(2013年12月28日).2013年12月28日閲覧. このときの贈り物はトラック1台分にもなったと語っている。また、扇子や浴衣が社会主義国では見たことの無いような包装紙で包まれていて、これも長い間とっていたと語っている。