プラーサートトーン

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テンプレート:Infobox プラーサートトーン王タイアユタヤ王朝の27代目の王。ソンタム王の母の兄の子とされるが、エーカートッサロット王の隠し子であるとの説もある。

略歴

幼少の頃からソンタム王に小姓として仕えていたといわれ、16歳の時には小姓の長になっていた。18歳の時、豊作を祈る国家の儀式の場で衛兵と喧嘩になり、数人を殺傷してしまい、投獄される。(喧嘩の原因は未詳。)しかし、ナレスワンの老妃の助命嘆願により出獄。その後すぐ、ソンタム王の兄弟を殺害する計画が露見し、再び投獄される。しかし、カンボジヤ遠征のおり、出征する友人に頼み込んで従軍、戦功をあげてそれまでの罪を許され、宮内官となる。その後、今度は王弟シーシンの侍妾を誘惑したとされ、死刑宣告を受けるが、やはり血縁者の減刑運動によって死をまぬがれた。以降はソンタム王の信任を受け、プラヤー・シーウォーラウォンに昇進。ソンタムの死後はその遺言に従い、チェーター親王を即位させた。チェーター王が叔父のシーシン親王が王位をねらっていると聞き、シーウォーラウォンに処刑させた。その功によってチャオプラヤー・カラーホームスリヤウォンに昇進した。しかし、チェーター王が不審な動きを示したのでこれを処刑し、その後アーティッタヤウォンを即位させたが、あまりに幼く官吏らがカラーホームに王位に付くよう願ったので、王位に就いた。

この王の間、パタニ王国が謀反を起こしたので沈静しに軍を派遣したが、一方で手薄になったチエンマイビルマに取られてしまった。

内政面では、大蔵省を設置し、対外貿易政策として貴重品等は国庫に納めてから外国へ送られることになり、最大の輸出品目である米についても、王の許可を受けなければならないとし、タイの華僑に打撃を与えた。しかしその実情は王家主導の貿易業務を華僑に委託するというもので、鎖国中の日本も、中国とだけ例外的に交易していたこともあり、中国人にはプラスに働いたとする見解もある。

山田長政との関係

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現在の評価

関連項目


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