パリ・コレクション

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パリ・コレクションテンプレート:Lang-fr-short, テンプレート:Lang-en-short)は、年2回、フランスパリで開かれる服飾銘柄店の新作発表会である。

概要

「パリ・プレタポルテ・コレクション」は3月に秋冬コレクション、10月に春夏コレクションが2週間前後の日程で開催発表される。また「パリ・オートクチュール・コレクション」は1月に春夏コレクション、7月に秋冬コレクション、男性服コレクションも同じく2月と7月に開催される。これらを総称して「パリコレ」という。

数多くの意匠家が独創性を重視した新しい作品を発表し、世界各国の報道関係者、ライター、フォトグラファーなどのメディア関係者や、バイヤー、スタイリストなどのアパレル業界関係者、その他芸能人、時に政治家などが開催時に招待客として前列に並ぶ。その他、特に有名意匠家メゾンにおいては、世界的な著名人や重要人物顧客人などが招待される為に、実際には一般の人々が直接会場で見ることがとても難しい状況である。

世界の有名なプレタポルテの蒐集は主にニューヨークロンドンミラノパリの4カ国4都市で開催される。多い時には各国から参加する意匠家を合わせて総勢200近いメゾンが参加する。なかでもパリ・コレクションは世界的にも一番に規模が大きく、その年の服飾の流行が左右されるため注目度は非常に高い。

パリ・コレクションは84年、ルーブル美術館中庭に特設天幕を設営しそこを拠点会場として、一定期間にまとまった形で衣装展覧会が開催されていたが、1998年頃からは銘柄ごとにルーブル美術館内の地下会館や独自に会場を設けるメゾンも多くなった。

歴史

オートクチュール・コレクションの歴史はベルエポックと呼ばれた文化的爛熟期の20世紀初頭にさかのぼる。

オート(haute)クチュール(couture)を作り出し、高級衣装店協会を設立したシャルル=フレデリック・ウォルトが先頭に立ち、最高の素材と技術、芸術的感覚で仕立てられる最高権威のコレクション「パリ・オートクチュール・コレクション」として1910年頃から開催されるようになった。 それゆえに「パリ・コレクション」とは、もともとはこのオートクチュール・コレクションを意味する言葉であった。 現在のように「パリ・コレクション」がプレタポルテを指すようになったのは1970年代のこと。 1950年頃までは世界の特注衣装を先導する存在であったが、1950年代、プレタポルテが服飾の奔流として台頭し、1960年代に始まったプレタポルテ・コレクションから主導権を決定的なものにした。 1968年の五月革命を期に、社会構造が真の意味での現代へと突入したフランスでは大量消費時代の機運、既製服運転方式プレタポルテへと移り始める。 第二次大戦の終戦直前には106ものメゾンを数えたフランスのオートクチュールも、1980年代から1990年代にかけての世代交代期には20あまりにまでに激減した。

「パリ・コレクション」は現在、厳密な意味において(定義を満たし、活動の力点をオートクチュールに置く)オートクチュールの技術と資本を備えているメゾンは10前後とも言われている。 最高級注文服を注文する顧客は年々下降の一途であり、世界中の顧客数が2000人に満たないのではないかという説もある。 フランスが誇る一文化としてオートクチュールを鑑みた際、享受層が極端に限定される文化の衰退は、もはや時代の移り変わりの象徴と言えるかも知れない。

パリで開催される、オートクチュール、プレタポルテ、通常どれも日本では「パリ・コレクション」と言うが、しかし、現在において「パリ・コレクション」というとまず先に、プレタポルテのコレクションを指して意味するようにもなっている。それらを区別する為にオートクチュールは「パリ・コレクション・オートクチュール編」と呼ばれている。

出展メゾン・ブランド

プレタポルテ・ウィメンズ

パリ・コレクションに出演した主な日本のファッションモデル

女性モデル
(東洋人初のパリ・コレクションモデル)

男性モデル

日本人の会員

参考文献

  • 『パリ・モードの200年~18世紀後半から第二次大戦まで~』南静(みなみ しずか)著(1975年5月20日、文化出版局[1]
  • 『パリ・モードの200年②~第二次大戦後から現代まで~』南静著(1990年11月5日、文化出版局)[2]

関連項目

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