ハーデクヌーズ

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ハーデクヌーズHardeknud, 1018年/1019年 - 1042年6月8日)は、デンマーク(在位:1035年 - 1042年)およびイングランド(在位:1035年 - 1037年[1]1040年1042年)の王。クヌート大王ノルマンディー公の娘エマの間のただ一人の息子である。

カヌート3世の名で1035年にデンマークを父から継いだが、イングランドでの地位を確保するためにそこへ渡るのを、ノルウェー王マグヌス1世が妨げたために争いとなった。結果、イングランドの支配の代わりにハーデクヌーズの非嫡出の腹違いの兄ハロルドを摂政とすることに合意した。

ハロルドは1037年自らイングランドの王となった―ハーデクヌーズは「デンマークに長く居過ぎたために見捨てられた」のだった[2]

ハーデクヌーズがスカンディナヴィアでこのような窮地に陥った後、マグヌスと1038年または1039年に、どちらか王位継承者でない方が死に、そうでない方を後継者とする[3]合意をして、ハーデクヌーズはハロルドを退位させるべくイングランド侵攻の準備をして、1039年に追放された母のいるフランドルブルッヘへ到着した。しかし1040年3月、侵攻が開始される前にハロルドは死んでしまった。『アングロ=サクソン年代記』によれば、ハーデクヌーズは「夏至の前の7日間」(6月17日)に62隻の艦隊と共にサンドウィッチに上陸した。ハロルドが生きている間に復讐を果たせなかったため、ハーデクヌーズは「ハロルドの死体を引き摺って沼へ投げ入れた」[2]

ハーデクヌーズは厳しく、非常に不評な支配者であり、海軍への給料のために激しい増税を行い、そのために1041年にはウスターで反乱が起きた。この反乱を鎮圧するのにウスターはほぼ壊滅した。税金を下げるよう地元の伯爵を説得するためにコヴェントリーの通りを馬に乗って走ったレディ・ゴディバはハーデクヌーズの治世の話であるといわれる。

ハーデクヌーズは後に懺悔王とよばれる異父兄エドワード(母エマとエゼルレッド無思慮王の息子)をノルマンディーへの追放から連れ戻し、副支配者そして後継ぎにした[3](『アングロ=サクソン年代記』によれば1041年)。ハーデクヌーズは生涯独身で子供はなかった。1042年6月にランベス (Lambeth) で死去した。「彼は酒を飲みながら立ち、突然激しく痙攣して地面に倒れた。そして近くの者は彼の手を握り、彼はその後何も話すことなく死んだ…」[2]。遺体はウィンチェスター大聖堂に埋葬された。エドワードが王位を継いだことによりサクソン王家の血筋による王位が戻った。

脚注

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先代:
クヌーズ1世
デンマーク王
1035年 - 1042年
次代:
マグヌス1世
先代:
ハロルド1世
イングランド王
1040年 - 1042年
次代:
エドワード懺悔王


テンプレート:デンマーク王

テンプレート:イングランド王
  1. archontology.org。『アングロサクソン年代記』に、1035年から1037年のイングランド王はハーデクヌーズでハロルド1世は摂政だったと書かれてあることから。ただし一方で、統治期間は4年と16週間とも書かれてあり、この期間をハロルド1世の治世に含める場合もある。なおイギリス王室の公式ホームページでは、ハーデクヌーズ(r.1035-1042)[1]、ハロルド1世(r.1035-1040)[2]となっている。
  2. 2.0 2.1 2.2 アングロ=サクソン年代記』、1035–1042.
  3. 3.0 3.1 Frank Stenton、Anglo-Saxon England (1943), Chapter XII: "England and the Scandinavian World".