ハワード・カーター

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テンプレート:Infobox Scientist ハワード・カーターHoward Carter1874年5月9日 - 1939年3月2日)は、イギリスケンジントン生まれのエジプト考古学者。ツタンカーメン王の墓を発見した人物。

生涯

エジプト考古学の大家であったフリンダーズ・ピートリーの下で学んだ。

1891年、17歳のとき遺跡発掘現場のスケッチ担当としてエジプトへ。イギリスでは高い教育を受けなかったものの、詳細な模写や考古学への情熱が高い評価を受け、1899年から1903年までエジプトの考古局首席監督官(遺跡監督官)を務めた。

気難しい性格から、30歳で遺跡監督官の地位を失ったが、その後は考古学者として活動。

イギリス貴族を中心に遺跡発掘の資金援助を受け、1916年からカーナヴォン卿の援助でエジプトの王家の谷発掘を開始。そして、援助の契約が切れる1922年、「世紀の発見」と言われるツタンカーメン王の墓を発見した。

カーターは高等教育を受けていなかったため、当時の学会では彼や彼の携わった発掘は低く扱われ、ツタンカーメン陵の発見後もそれは変わらなかった。彼の社会的な地位や報酬は、その業績に比較すると低いものだった。それでも発掘以前よりは確実に恵まれた環境で、余裕のある研究生活を送ることはできた(彼の晩年の住まいは一等地に建っていた)。

著書に『ツタンカーメンの墓』などがある。

1939年に64歳で息を引き取った。

ツタンカーメンの呪い

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王墓発見後、カーナヴォン卿が墓の公開直後に急死した。また他にも発掘関係者数名が死亡した。発掘のスポンサーとなったカーナヴォン卿が死に発掘関係者も数名次々と不遇の死を遂げたので、当時のマスメディアで "ファラオの墓の発掘に関係した者には呪いがかかり死ぬ"という話が書かれ、「王家の呪い」あるいは「ツタンカーメンの呪い」伝説が広まった。

これは当時のマスメディアが報道規制に反発してテンプレート:要出典”呪いによる死” と言う形で報道したのだという。発掘者カーターにもマスコミの害は及び、同姓同名の別人が交通事故により死亡した際に、あたかもこの発掘者のハワード・カーターが事故死したかのように書きたてられるということも起きた。この誤報は訂正記事で訂正された。

カーターは世間で噂された「王家の呪い」とは何ら関係なく健康な人生を送り、64歳の死去も当時の人間の平均寿命を考えれば、まずもって天寿を全うしたと言える。また直接発掘に関与した関係者も多くは長生きしている。

もっともツタンカーメンの呪いを頑に信じる人もおり、カーターの情熱が呪いを退けたとも、あるいは発掘後に副葬品の多くが墓地から移されたものの、ツタンカーメンのミイラはカーターの意思により元の墓地内に安置し続けられた事が、呪いを避ける事ができた原因ともされる(つのだじろうの漫画、『うしろの百太郎』など)。

外部リンク

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