ノーサンブリア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:基礎情報 過去の国


ノーサンブリア(Northumbria)は、アングロサクソン人が築いた七王国のうち最北、現在のノーサンバランドにあったアングル人の王国である。

王国の範囲は現在の行政区で言えば、ノース・イースト・イングランドヨークシャー・アンド・ザ・ハンバーカンブリアを含むノース・ウェスト・イングランド、そしてスコティッシュ・ボーダーズの範囲まで渡る。またハンバー川より北の地方がこう呼ばれ、ハンバー以南の地方はサウサンブリアと呼ばれた。

ノーサンブリアにはテンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクという二つの王国が並存していた。これらはときに対立し、ときに統一されてノーサンブリア王国という一つの国になり、そしてまた分裂するということを繰り返した。二つの王家の伝説的な祖先が、オーディンの双生の息子、ベルデーグとウェグデーグとされているところからも、これらがもとは同じ部族であったことが推察される。

歴史

ノーサンブリアに侵入したアングロサクソンの一派のうち、半分は南で留まってデイアラ王国を築き、もう半分はさらに北へ進んでバーニシア王国を建てた。 593年に即位したバーニシア王テンプレート:仮リンクテンプレート:Lang-ang)は、周囲のブリトン人諸王国を次々に制圧したのち、604年ごろには隣国デイアラを侵略。デイアラ王子テンプレート:仮リンクは亡命を余儀なくされるが、イースト・アングリアの王テンプレート:仮リンクテンプレート:Lang-ang)の助力を得て、615年テンプレート:仮リンク河畔の戦いでアゼルヴリスを破った。アゼルヴリスの息子たちは、北方スコットランドへ亡命した。616年テンプレート:仮リンクでアゼルヴリスは、テンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクマーシアを破った。

その後しばらく、エドウィンは627年キリスト教に改宗。ノーサンブリアを平和のうちに統治、マン島ウェールズ北部のグウィネズ国にまで遠征、後年アングロサクソン社会の覇者ブレトワルダとして記憶される事となる。しかし632年マーシアペンダに敗れて戦死する。

エドウィンの敗死後、ノーサンブリアはバーニシア王国とデイアラ王国に分裂。バーニシア王国はアゼルヴリスの息子インフリス(Eanfrith)が、デイアラ王国はエドウィンの従兄弟であるオスリッチ(Osric)が治める。そしてバーニシア王国ではインフリスが殺害され、兄弟であるテンプレート:仮リンクが権力を握った。オスワルドはノーサンブリアの領域を着実に拡大。現スコットランドテンプレート:仮リンクテンプレート:Lang-ang)まで拡大する。またアイオワ島より聖エイダンを招聘。ケルト系キリスト教を再び普及、そしてリンディスファーン島に修道院を建立する事となった。対外的にはマーシアとの戦争を続行。しかしオスワルドはペンダに敗れ敗死した。

エドウィンの子オズウィンがデイアラを継ぎ、アゼルヴリスの子にしてオズウァルドの弟であるテンプレート:仮リンクがバーニシアを継いだ。両国の争いは再び繰り返されることとなる。オズウィはデイアラの併呑を目論んでオズウィンを殺害し、その姉妹のエアンフレドを妃とした。彼の時代に655年ついにマーシアのペンダを破り、一時期は国力を回復、この功績により覇王ブレトワルダとして記憶される事となる。しかし、670年にオズウィが没し、エアンフレドとの子エグヴリスが後を継いだ後、またしてもマーシアに敗北。こうしてノーサンブリアは次第に衰えていった。

テンプレート:節stub

文化

ノーサンブリアはその黄金期において、イギリスにとって宗教の普及や拡散における重要な中心地となった。まず当時ケルト教会に属するアイオナ島(現在はスコットランド領)よりアイルランド人の修道僧がノーサンブリアに来訪、そしてこの地に修道院が根付くようになる。635年ノーサンブリア東岸のリンディスファーン島にアイオナ島より聖エイダンが来訪。リンディスファーンは一大修道院となり、後世ウィルフリッド聖クスベルトのような人材を輩出した。またノーサンブリア貴族であったベネディクト•ビスコップ(en:Benedict Biscop)はローマを訪問、後にケント王国にあるカンタベリーの修道院長となった。さらに彼はモンクウェアマウス•ジャロー修道院(en:Monkwearmouth-Jarrow Abbey)を建設。この修道士はダブル•モナステリー(en:double monastery) - 男性と女性の修道士が同じ場所で礼拝を行う修道院で当時はこのような形態が多かった - となっており、このように今までケルト系教会の影響を受けていたノーサンブリアが直接ローマ教会の影響力も加わる事となった。またこの修道院では後世チェオルフリスベーダのような人材を世に出している。

ノーサンブリアはまたブリテン島の美術の中心地として重要な役割を演じ、アングロサクソン、ケルト、ピクト、ビザンティンなどの美術要素を組み合わせた文化を作り上げた。有名な美術作品としてはリンディスファーンの福音書、聖クスベルトの福音書(en:St Cuthbert Gospel)、アングロサクソン様式に装飾された十字架であるラスウェル十字(en:Ruthwell Cross)やビューカースル十字(en:Bewcastle Cross)、またこれはアイオナ島で作られたものとされるが、ケルズの書が挙げられる。

664年ウィットビー教会会議の後、ノーサンブリアは今まで影響下であったケルト系キリスト教に代わり正式にローマ・カトリック教会の傘下となった。しかしその後もケルト系キリスト教の影響は続いており、その傾向はリンディスファーンの福音書にも見られる。またモンクウェアマウス•ジャロー修道院ではベーダが731年にイングランド教会史を校了、この書の内容の多くはノーサンブリアに関する著述で占められている。 しかし8世紀になるとバイキングが侵略を始め、リンディスファーン修道院はバイキングによって731年略奪を受けてしまう。バイキングの侵略はアングロサクソン文化を阻み、その後もイスビー十字(en:Easby Cross)に見られる優れた美術作品を産出するものの、それまで文化の中心地として担っていたノーサンブリアはその役割を終えた。

現在でもノーサンブリア特有のタータンチェックが存在しており、古くからのタータン模様につながるものとされる。例えばファルカーク(en:Falkirk)で見受けられるタータン様式はローマ時代(もしくはそれ以前)の ユトランド地方のものと似ている。現在のタータンは白と黒の太線の交差ではあるが、古来のタータンは脱色していないウール地で黄色っぽい白、それにダークグレー、青、緑ないし茶色の色とりどりの線で交差したものである。この文様はボーダードラブ(Border Drab)とも呼ばれ、遠くからではタータンチェックの模様がカモフラージュ効果を生み出し、狩猟などに適したものとなるらしい。 テンプレート:節stub

関連項目


テンプレート:Asbox テンプレート:Uk-stub