トーマス・ハーンズ

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トーマス・ハーンズThomas Hearns、男性、1958年10月18日 - )は、アメリカ合衆国プロボクサーテネシー州メンフィス出身。初期のニックネームマシンガン・トミーMachine-gun Tommy)、後にヒットマンThe Hit Man)、あるいはモーターシティ・コブラThe Motor City Cobra)。なお試合前のコール時には愛称であるトミー・ハーンズと呼ばれることが多い。

史上初の4階級制覇、さらに史上初の5階級制覇を成し遂げた。

人物

身長185cm、リーチ198cmという中量級選手としては非常に恵まれた体格を生かし、左腕をだらりと下げたデトロイトスタイル(ヒットマンスタイルとも呼ばれる)から放つフリッカージャブ[1]と正確な強打、マシンガンのように繰り出すラッシュで1980年代のボクシング・シーンを席巻した。マービン・ハグラーシュガー・レイ・レナードロベルト・デュランらと共に「黄金の中量級」と称された時代を盛り上げた選手の一人である。

強打で対戦相手をなぎ倒す強さを見せる一方で、典型的なグラス・ジョーであったため一発に泣かされることもあった。

息子のロナルド・ハーンズ(Ronald Hearns、1978年12月27日 - )もプロボクサーになっており、2005年と2006年には親子で同じ興行に出場した。

来歴

子供の頃はいわゆる「もやしっ子」。アメリカのテネシー州メンフィスで生まれ、5歳の時にデトロイトに移住。母親ロイスとの母子家庭で育つ。8人兄弟の長男。母親はハーンズがボクシングをすることに反対していた。

アマチュア時代は155勝8敗の好成績だがKOはわずかに12。ワンツー主体の非力なアウトボクサーだった。しかし、1974年にキング・ソロモンジムを離れ、クロンク・レクリエーション・センターでトレーナーを開始したばかりのエマニュエル・スチュワートと出会い、才能を開花させる。1977年11月のプロデビュー後は強打者に変身。いきなり17連続KO勝ちを収めた。その後もセンサク・ムアンスリンエディ・ガソといった元世界王者・世界ランカーを倒し続けた。

1980年3月2日、アンヘル・エスパダを4RKOで下しUSBA全米ウェルター級王座を獲得した。

同年8月2日、プロ3年目でWBA世界ウェルター級王者、ホセ・クエバスメキシコ)への挑戦が実現。既に11度(10KO)の防衛を果たし、最強とまで言われた王者に2R右クロスでKO勝ちし、王座を獲得した。その後3度防衛、3度目の防衛戦はアストロドームで開催されパブロ・バエスに序盤KO勝ち。

1981年9月16日、WBC世界ウェルター級王者、シュガー・レイ・レナードとの統一戦を迎える。拮抗した実力を持った両者の、互いの持ち味を出し尽くした熱戦となったが、14Rにレナードの集中打を浴びTKO負け。王座から陥落した。

1982年12月3日、ルイジアナ・スーパードームウィルフレド・ベニテスを判定で下し、WBC世界スーパーウェルター級王座を獲得。2階級制覇に成功した。1984年6月15日にはラスベガス恐怖の一撃と呼ばれる破壊力抜群の右ストレートでロベルト・デュランを2RKOで下すなど、4度の防衛に成功した。

1985年4月15日には3階級制覇を賭け、統一ミドル級王者マービン・ハグラーに挑戦。初回から激しい打ち合いとなったが、3RTKOで敗れた。

1986年3月10日の再起戦で、(WBC世界ミドル級1位にランクされハグラーへの指名挑戦権を有していた22戦全勝)ジェームス・シュラーを1RKOと健在をアピール。NABF北米ミドル級王座を獲得。6月23日、WBC世界スーパーウェルター級王座4度目の防衛戦で同級IBF初代世界王者(前王者)マーク・メダルに8RTKO勝ちで防衛成功後に同王座を返上した。

1987年3月7日にはデニス・アンドリュースを破ってWBC世界ライトヘビー級王座を獲得。3階級制覇に成功した。

1987年10月29日、王座決定戦でファン・ドミンゴ・ロルダンを4RKOに下し、WBC世界ミドル級王座を獲得。史上初の4階級制覇に成功した。

1988年6月6日、アイラン・バークレーに3RTKOで敗れWBC世界ミドル級王座から陥落した。

1988年11月4日、ジェームス・キンチェンを下しWBO世界スーパーミドル級王座を獲得。史上初の5階級制覇を達成した。

1989年6月12日、WBC・WBO世界スーパーミドル級タイトルマッチで、宿敵シュガー・レイ・レナードと王座統一戦で再戦、二度のダウンを奪うも、最終回にレナードの猛反撃を許したのが響いて引き分ける。しかし全体的にハーンズ優勢と見る意見が多く、シーザース・パレス屋外特設会場を埋めた観衆はレナードにブーイングを浴びせ、ハーンズの勝利を支持した。

1990年6月3日、ヴァージル・ヒルを12R判定で下しWBA世界ライトヘビー級王座を獲得した。

1992年6月3日、アイラン・バークレーに12R判定で敗れWBA世界ライトヘビー級王座から陥落した。それ以降はマイナー王座に矛先を移し、1994年1月29日にNABF北米クルーザー級王座、1995年3月31日にWBU世界クルーザー級王座を獲得。1999年4月10日、ネート・ミラーを12R判定で下しIBO世界クルーザー級王座を獲得した。

2000年4月8日、ユーライア・グラントに2RKOを喫し、IBO世界クルーザー級王座から陥落し、同時に現役引退を表明した。

2005年7月30日、ジョン・ロングを8RTKOで下し5年ぶりの復帰を果たした。

2006年1月1日、家庭内暴力(13歳の息子を殴打した)の容疑で逮捕されるも罪に問われず、2月4日には復帰2戦目で10RTKO勝ち。

2010年4月3日、約50万ドル滞納した税金を返済するためにオークションを開催、数々の記念品や1957年製のシボレーやボートなどを売却した。その他に現在居住しているミシガン州サウスフィールドの自宅にも50万ドルの負債が残っている[2]

脚注

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関連項目

外部リンク

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  1. 通常のジャブとは異なり、腕全体をしならせることでスナップを効かせて放つ。ハーンズは高速のフリッカージャブを変幻自在に操り、更に時折オーソドックスなジャブも織り交ぜることで間合いを支配する技に長けていた。
  2. テンプレート:Cite web