デューク・オブ・ヨーク (戦艦)

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艦歴
建造 ジョン・ブラウン社
起工 1937年5月5日
進水 1940年2月28日
就役 1941年11月4日
退役 1951年11月
その後 1957年にスクラップ
除籍 1957年5月18日
性能諸元
排水量: 42,500t
(1945年時基準:39,450t)
(1945年時満載:44,794t)
全長 227.1m 225.6m(水線長)
全幅 31.4m
吃水 10.5m
機関 蒸気タービン4基4軸 125,000馬力
最大速 28.3ノット
航続距離 6,000カイリ(14ノット時)
乗員 1,556名
兵装 竣工時:
35.6cm4連装砲塔2基
同連装砲塔1基
13.3cm連装両用砲8基
40mm8連装ポンポン砲6基
40mm単装機銃1基
20mm単装機銃6基
カタパルト1基

~1945年
35.6cm4連装砲塔2基
同連装砲塔1基
13.3cm連装両用砲8基
40mm8連装ポンポン砲8基
40mm4連装ポンポン砲6基
40mm単装機銃1基
40mm4連装機銃2基
20mm連装機銃8基
20mm単装機銃39基
レーダー 竣工時:
273型 1基
281型 1基
282型 6基
285型 4基 (対空射撃管制)

~1945年:
274型 2基
277型 1基 (水上・対空警戒両用)
281B型 1基
282型 8基
285型 4基 (対空射撃管制)
293型 1基

デューク・オブ・ヨーク (HMS Duke of York, 17) は、イギリス海軍戦艦キング・ジョージ5世級。艦名は最初は「アンソン」だったが、1938年12月に「デューク・オブ・ヨーク」と改名された。

艦歴

ジョン・ブラウン社で建造。1937年5月5日起工。1940年2月28日進水。1941年11月4日竣工。本国艦隊に所属。

1941年12月中旬、デューク・オブ・ヨークはアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトとの会談のためアメリカへ向かうイギリス首相ウィンストン・チャーチルを乗せた。デューク・オブ・ヨークは12月22日にアナポリスに到着し、1942年1月にはバーミューダへの慣熟航海を行い1月17日にスカパ・フローへと向かった[1]

1942年3月1日、デューク・オブ・ヨークは巡洋戦艦レナウン、巡洋艦ケニア、6隻の駆逐艦とともにPQ12船団の近接護衛を務めた。ジョン・トーヴィー大将が、ドイツ戦艦ティルピッツが船団攻撃に出撃して来るかもしれないと考えたため3月6日には戦艦キング・ジョージ5世、空母ヴィクトリアス、重巡洋艦ベリック、駆逐艦6隻が増強された。3月6日、ドイツ戦艦は出撃し19時40分ごろにイギリス潜水艦により発見された。ヴィクトリアス搭載機による不成功に終わった雷撃を除けば両軍の間に接触は無かった[1]

1942年10月、デューク・オブ・ヨークはH部隊の新たな旗艦としてジブラルタルに派遣され、翌月にはトーチ作戦を支援した[2]。デューク・オブ・ヨークはイタリア軍機による攻撃を受けたがそれらは比較的小規模であり空母ヴィクトリアスやフォーミダブルフューリアス搭載機によって速やかに処理された。その後デューク・オブ・ヨークはイギリスに戻り修理を受けた[3]

1943年10月、リーダー作戦に参加。同年12月26日にはJW55B船団攻撃に出撃してきたドイツ海軍巡洋戦艦シャルンホルスト」と交戦し、スタビライザー方式の主砲射撃方位盤により荒天の揺れを抑え、さらに正確なレーダー管制射撃[4]によりこれを大破させた。「シャルンホルスト」は最終的に軽巡洋艦ジャマイカ」や駆逐艦の雷撃により沈没した。(北岬沖海戦

1945年4月には太平洋艦隊所属となり、7月太平洋に到着し、太平洋艦隊の旗艦として9月2日の日本の降伏調印式に参加している。

1957年除籍、解体。

主な活動

北洋船団護衛
北アフリカ
南イタリア上陸
日本本土上陸予備作戦など

ギャラリー

脚注

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参考文献

外部リンク


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  1. 1.0 1.1 Garzke p. 216
  2. Konstam p. 43
  3. Chesneau p. 14
  4. 世界の艦船 増刊第67集