ジョアキーノ・ロッシーニ

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ロッシーニの肖像画

ジョアキーノ・ロッシーニ(本名はジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニ Gioachino Antonio Rossini, 1792年2月29日 - 1868年11月13日)は、イタリア作曲家美食家としても知られる。

人物

セビリアの理髪師』や『ウィリアム・テル』などのオペラ作曲家として最もよく知られているが、宗教曲室内楽曲なども手がけている。彼の作品は当時の大衆やショパンなど同時代の音楽家に非常に人気があった。

ジョアッキーノ(Gioacchino)と綴られることが多かったが、出生届けなどからGioachinoであることが判明したため、ペーザロのロッシーニ財団の要請で、ジョアキーノ(Gioachino)と綴るようになってきており、ここ数年のイタリアでの公演や録音、映像収録ではGioachino綴りで行われているが、イタリア国外ではまださほど徹底されていない。

生涯に39のオペラを作曲、イタリア・オペラの作曲家の中で最も人気のある作曲家だった。ただし、実質の作曲活動期間は20年間に満たない。絶頂期には、1年間に3~4曲のペースで大作を仕上げていた。彼の作品は『セビリャの理髪師』『アルジェのイタリア女』のようにオペラ・ブッファが中心だと思われがちだが、実際オペラ作曲家としてのキャリアの後半期はもっぱらオペラ・セリアの分野で傑作を生み出している。 人生の半ばに相当する37歳の時に大作『ウィリアム・テル』を作曲した後はオペラ作曲はせず、サロン風の歌曲やピアノ曲、宗教作品を中心に作曲を行った。

略歴

  • 1792年 - 2月29日ペーザロに生まれる。
  • 1800年 - (8歳)ボローニャに移り住み、ボローニャ音楽学校に学ぶ
  • 1810年 - (18歳)フィレンツェで一幕のオペラ・ファルサ「結婚手形」を初演。オペラ作曲家としてデビュー。
  • 1812年 - (20歳)ブッファ『試金石』をスカラ座で初演。初のヒット作となり兵役を免除される。
  • 1813年 - (21歳)「タンクレーディ」「アルジェのイタリア女」が初演後たちまち大ヒットしヨーロッパ中に名声が轟く。
  • 1815年 - (23歳) ナポリで「エリザベッタ」初演。以後この地のサン・カルロ劇場の音楽監督として、精力的にオペラ・セリアの傑作を生み出す。
  • 1822年 - (30歳)歌手のイザベラ・コルブランと結婚。
  • 1823年 - (30歳)「セミラーミデ」初演。イタリアでの最後のオペラとなる。
  • 1824年 - (32歳)パリのイタリア座の音楽監督に就任。
  • 1829年 - (37歳)最後のオペラ『ウィリアム・テル』を発表。
  • 1836年 - (44歳)音楽界から引退し、イタリアのボローニャ(のちフィレンツェ)で隠居生活を送る。
  • 1845年 - (53歳)イザベラ死去。
  • 1846年 - (54歳)8月16日美術モデルオランプ・ペリシエと再婚。
  • 1855年 - (63歳)健康が回復したとしてパリに戻る。著名人を集めたサロンや高級レストランを経営。
  • 1868年 - (76歳)11月13日、死去。現在はイタリアのサンタ・クローチェ教会に眠る。

人物伝~「ナポレオンは死んだが、別の男が現れた」

ロッシーニはイタリアのアドリア海に面したペーザロで音楽一家に生まれた。父親ジュゼッペ(Giuseppe)は食肉工場の検査官をしながらトランペット奏者をしていた。また、母親アンナ(Anna)はパン屋の娘で歌手であった。両親は彼に早くから音楽教育を施し、6歳の時には父親の楽団でトライアングルを演奏したと言われている。父親はフランスに好意を抱いており、ナポレオンが軍を率いてイタリア北部に到達したことを喜んでいた。しかしこれが元になり、1796年になってオーストリアに政権が復帰すると、父親は投獄されてしまった。母親はロッシーニをボローニャにつれてゆき、生活のためにロマニャーノ・セージアの多くの劇場で歌手として働き、のちに父親と再会した。この間ロッシーニはしばし祖母の元に送られ、手におえない子供と言われていた。容姿はやや太り気味だが、天使のような姿と言われ、かなりのハンサムだったので、多くの女性と浮き名を流した。

ロッシーニは10代終わりの頃からオペラ作曲家としての活動を始めた。1813年、20歳から21歳にかけての作品『タンクレーディ』と『アルジェのイタリア女』でオペラ作曲家としての評判を確立し、1816年、24歳の作品『セビリアの理髪師』でヨーロッパ中にその名声をとどろかせた。

1816年以降、ウィーンではロッシーニ人気の高まりによって、イタリア・オペラ派とドイツ・オペラ派の対立が巻き起こったが、イタリア派の勝利に終わった。1822年、ロッシーニは『ゼルミーラ』上演のためにウィーンを訪れ、熱烈な歓迎を受けた。このとき訪問を受けたベートーヴェンは『セビリアの理髪師』を絶賛し、「あなたはオペラ・ブッファ以外のものを書いてはいけません」と述べたという[1]。ベートーヴェンはロッシーニの才能を認めていたが、大衆が自分の音楽の芸術性を評価せず、ロッシーニの曲に浮かれていることに愚痴をもらしている[2]

1823年、ロッシーニはパリを訪問し、やはり議論を巻き起こしながらも大歓迎を受けた。この訪問と同じころに出版された『ロッシーニ伝』において、スタンダールは「ナポレオンは死んだが、別の男が現れた」と絶賛している。

1825年、フランス国王シャルル10世の即位に際して、記念オペラ・カンタータ『ランスへの旅』を作曲、国王に献呈し、「フランス国王の第一作曲家」の称号と終身年金を得る。37歳で『ギヨーム・テル(ウィリアム・テル)』発表後、オペラ界から引退を表明。以後は『スターバト・マーテル』などの宗教曲や小品のみを作曲し、年金生活に入る。1830年7月革命に際しても新政府と交渉し、前国王政府から給付された年金を確保することに成功した。

一方、彼は若い頃から料理が(食べることも作ることも)大好きで、オペラ界からの引退を表明した後の余生はもっぱら料理の創作や高級レストランの経営に費やしていた。フランス料理によくある「○○のロッシーニ風」(ヒレステーキフォワグラトリュフのソテーを添えた「トゥールヌド・ロッシーニ」など)とは、彼の名前から取られた料理の名前である[3]。彼はあまりにも料理が好きだったためか、料理の名前を付けたピアノ曲も作っている。

晩年には淋病躁鬱病慢性気管支炎などに悩まされ、ついには1868年直腸癌になり、手術を受けたが、それによる丹毒に感染して生涯を閉じた。

ロッシーニは従来は教会の儀式などでしか聞くことが出来なかった宗教音楽を、一般のコンサートのレパートリーとして演奏するように尽力した人物である。ロッシーニのこの分野での傑作である『スターバト・マーテル』も、実は一般のコンサートを念頭において作曲されたものである。

作曲家として

パリで貧困生活にあえいでいたヴァーグナーがロッシーニのような作曲家になることを目標にしていたことはよく知られている。また、『ウィリアム・テル』を見たベルリオーズは、「テルの第1幕と第3幕はロッシーニが作った。第2幕は、神が作った」と絶賛している。当時から見ても「才能はあるが怠け者」の作曲家だったらしく、『セビリアの理髪師』の作曲をわずか3週間で完成させ、ベッリーニは「ロッシーニならそれくらいやってのけるだろう。」と述べている。

ロッシーニは(同時代の他作曲家の例にもれず)現在の著作権・創作概念からみれば考えがたい行動をとっており、同じ旋律を使い回すのは朝飯前で、『セビリアの理髪師』序曲は、『パルミーラのアウレリアーノ』→『イングランドの女王エリザベッタ』の序曲を丸ごと再々利用している。また、『ランスへの旅』でも最終カンタータの場面は諸国国歌の丸写しである。さらにベートーヴェンの第8交響曲の主題を剽窃し、また機会オペラ(国王即位記念に数度演奏されたにすぎなかった)だった『ランスへの旅』を、細部を手直ししただけでコミックオペラ『オリー伯爵』に作り替えている。

ロッシーニ・ルネッサンス

ロッシーニは死後たちまち忘れられた作曲家となってしまい、『セビリアの理髪師』『チェネレントラ(シンデレラ)』『ウィリアム・テル』(の序曲)の作曲家としてその名をとどめるだけの期間が長く続いた。特に上演や全曲録音はもっぱら『セビリアの理髪師』に集中したため、オペラ作家としては一発屋に近いイメージでとらえられがちだった(しかも『セビリアの理髪師』は、76歳まで生きた彼の24歳の作品である)。しかし、ペーザロのロッシーニ財団が1960年代終わりから出版を開始した(現在も出版が続けられている)クリティカル・エディションによるロッシーニ全集の出版などをきっかけに、1970年代になるとロッシーニのオペラが再評価されるようになった。リコルディ社から校訂版楽譜が次々と出版されるようになり、それと並行してクラウディオ・アバドベルリンで『ランスへの旅』を約150年ぶりに再上演し、以後ヨーロッパにおいてアバドなどの音楽家を中心にロッシーニ・オペラが精力的に紹介されるようになり、1980年代以降その他の作品も見直され、上演される機会が増えた。また、クリティカル・エディションの刊行により、長年受け継がれてきた伝統的な歌唱法や、旧版に記されていた間違いなども改めて見直され、よりロッシーニの楽譜に忠実な演奏が試みられるようになった。この再評価の動きを「ロッシーニ・ルネッサンス」という。現在では『ランスへの旅』、『タンクレーディ』、『湖上の美人』をはじめ、ロッシーニの主要オペラがほぼ再演されるようになっている。のみならず、かなりマイナーな作品の蘇演も延々と続いており、作品数が多いだけに、その活況はプッチーニやヴェルディに迫らんばかりの勢いを呈している。ペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティバルにおける蘇演、ロッシーニ研究家で指揮者のアルベルト・ゼッダの功績も大きい。

主な作品と作曲年

作品についてはロッシーニの楽曲一覧をご覧ください。

オペラ

管弦楽曲

  • シンフォニア 変ホ長調
  • シンフォニア ニ長調
  • イタリアの戴冠式
  • クラリネットと小管弦楽のための変奏曲 ヘ長調

宗教曲

歌曲

  • 音楽の夜会
  • ヴェネツィアの競漕
  • ラ・ダンツァ

器楽曲

その他の作品

  • 歓喜
  • 主題
  • Brindisi
  • 劇付随音楽 コロノスのオイディプス
  • 狩での出会い(ファンファーレ)
  • Giunone(1822年以前に作曲?)

由来の定かでない作品

  • 2匹の猫の愉快な歌(偽作)
  • 交響曲(作曲年代不明)
  • 歌劇 イタリアの王ウーゴ(未完、1824年)

関連する人物

脚注

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外部リンク

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  1. 水谷彰良『ロッシーニと料理』 透土社、1993年(新版2000年)、173頁
  2. 『ロッシーニと料理』、175頁
  3. ロッシーニがオペラ界から引退した後、リヒャルト・ワーグナーがロッシーニの自宅を訪問した時のことである。ワーグナーはオペラ音楽についての話題を熱心に語っていたが、その間、ロッシーニは「ちょっと失礼」と言って部屋から出て行き、数分後に戻って来るという行為を何度も繰り返していた。ワーグナーが不思議に思ってその理由を尋ねると、ロッシーニはちょうど鹿の肉を焼いていたところで、彼は肉の焼け具合を確かめるために何度も部屋から出ていたのだという。ロッシーニが当時すでに音楽よりも料理の方に熱意を傾けていたことを物語るエピソードである。