サリー・ポッター

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サリー・ポッターSally Potter, OBE1949年 - )はイギリスロンドン出身の映画監督脚本家作曲家ダンサーである。

ダンス振りつけを学び、25歳のときにリミティッド・ダンス・カンパニーを結成。ダンスの短編映画を数本撮り、1983年に長編映画デビュー。

若年期

ロンドンで生まれ育つ。母親は音楽の教師で、父親はインテリアデザイナーで詩人[1]。15歳のときにいくつか短編映画を撮り、ロンドンのコンテンポラリーダンス学校に振付師として所属する。映画作家として影響される思想的背景は何かと問われた際、「無神論者の背景とアナキストな背景が由来しているが、これは私が何事も当たり前とは思わない、疑問に満ちた環境で育ったことを意味する」と答えている[2]

経歴

ポッターは14歳の頃に、おじからもらった8ミリカメラでアマチュア映画を作るのを始めている[3]。16歳のときに学校を中退し、映画作りに打ち込んだ。ロンドンの映画会社"Co-op"に入った後、1968年から1970年に彼女は自分の生活と仕事を行うため、台所仕事や、BBCでピクチャーリサーチャーを行った。Coopでは"Jerk"(1969年)やPlay(1970年)などの実験的な短編映画を制作した。彼女はその後ダンサーや振付師としてロンドンのコンテンポラリーダンス学校で教え、ジャッキー・ランスリーとともにダンス会社を立ち上げる前までに、Combines(1972年)などの映画と振付を制作した。

ポッターはMounting, Death and the Maiden and Berlinでパフォーマンスアーティスト、演出家として賞をもらった。加えて、 Feminist Improvising Group や The Film Music Orchestraなどのいくつかの音楽グループに所属し、歌手や作詞家として仕事をした。彼女は作曲家 Lindsay Cooperとコラボし、連作歌曲Oh Moscowを製作、1980年代後半にヨーロッパロシア北アメリカでリリースされた。ポッターの音楽の仕事はOrlandのサウンドトラックをDavid Motionと共同で作曲したり、自身も映画のラストシーンで"I am You"を歌ったThe Tango Lessonの楽譜を作るなど、後にも続いた。彼女の最近の音楽の仕事は YesRageでプロデューサーをしながら、Fred Frithと共同作曲したこと。振付師としての仕事について彼女は、「振付師は完璧な"貧しい劇場"だ。求められることは体といくつかの空間に意志を働かせることだけだ。だからどのように演出するかを学べたのが振付師だったし、どのように働くかを学べたのがダンサーである」と発言している[4]

国際的な回遊フェスティバルでヒットした短編映画Thriller (1979年)で映画製作を再開する。ジュリー・クリスティが演じたThe Gold Diggers (1983年)(これは彼女の初の長編映画)、短編映画 The London Story (1986年)、チャンネル4ドキュメンタリーシリーズのTears, Laughter, Fear and Rage (1986年)、ソビエト映画の女性を描いたI am an Ox, I am a Horse, I am a Man, I am a Woman (1988年)。

国際的に展開したオルランド (映画)(1992年)は、彼女の仕事を広い観衆に知らしめた。ティルダ・スウィントン主演、ヴァージニア・ウルフの小説を元にし、ポッターが脚色した。アカデミー賞にノミネートされ、オルランドは25個以上の国際的な賞を受賞。ウルフの書いた多くの小説は400年以上も前が舞台な上、男から女に性別が変わるキャラクターを用いていることから、もとより映画化は不可能と言われてきた。それゆえに資金難に陥ることが判明し、撮影と編集に20週しかかけなかったのにかかわらず、完成には7年を要した[5]。オルランドはフェミニン映画と言われることもあるが、ポッターはそれを否定している。彼女はインタビューで、「私の映画はその言葉を使うことが出来ないという結論に達した。解放、尊厳、平等の約束という言葉を生み出したその基本原則を否定する意味ではない。しかしその言葉は、人間が考えるのをやめてしまう言葉になる。その言葉が会話に出た時に、人は文字通りに、疲労で目が曇ってしまう」と語った[6]。純粋なフェミニン運動の代わりに、ポッターは男になる厳しさ、女になる厳しさの両方を映画で主張している。

彼女の次の映画は、有名なタンゴダンサーPablo Veronとともに自身も出演したThe Tango Lesson (1996年)である。ヴェネツィア国際映画祭で初めて上映され、マール・デル・プラタ国際映画祭で最優秀映画に送られる "Ombu de Oro"を受賞、Sociedad Argentina de Autores y Compositores de Musicaでthe SADAIC Great Awardを受賞、英国アカデミー賞ナショナル・ボード・オブ・レビューで優秀作品にノミネートされた。The Tango LessonRageを書いている最中に、Velonとアルゼンチンタンゴダンスを学んだ経験をもとに、自伝とフィクションとを組み合わせて作っている。The Tango Lessonはポッター自身が劇中で演じた最初の映画となった。この決定に関して彼女は、「私が踊りたい欲求が映画の勢いから出てきたため、私は演じなければいけないと悟った」と語る[7]。ポッターはPablo VeronとThe Man Who Cried、Carmen (2007年)でも共に仕事をした。

ジョニー・デップクリスティーナ・リッチケイト・ブランシェットジョン・タトゥーロが出演したThe Man Who Cried はVenice Film Festival in 2000に初日公演し、ジョアン・アレンシモン・アブカリアンサム・ニールが出演するYes (2004年)に続いた。Yes2001年9月11日の出来事への直接的な反応で書いており、ポッターは映画作りのより実験的な手法へ戻ろうと考えた。脚本で書かれており、映画の予算はThe Man Who Criedよりずっと少なかった。映画の予算とスタイル面でのアプローチについて彼女は「多くの予算があるようには思えなかったため、もともとライトを浸けずに撮影する方法を見出そうとしていた。ひとつの解決策は1秒6フレームか3フレームで撮影することだった。それぞれのフレームで4回(時に8回)撮影した後、1秒24フレームに同調させた。ほとんど暗闇で撮影が出来、人の顔も見え……テストの結果とても美しかった。それで映画の言語の一部にすることを決めた」と語る[8]

2007年イングリッシュ・ナショナル・オペラジョルジュ・ビゼーカルメン (オペラ)を演出した。Alice Cooteが出演、Es Devlinが脚色。

Rage (2009年)は携帯電話で公開した最初の映画だった。キャストはジュディ・デンチスティーヴ・ブシェミリリー・コールジュード・ロウRageベルリン国際映画祭2009で優秀ドラマに送られるWEBBYにノミネートされた。

ポッターは最近次回作の製作を終えた。ポッターが脚本・監督、Christoper SheppardとAndrew Lityinによりプロデュースされた。

ポッターは自分の全作品の回顧展を、2009年にロンドンのBFI Southbank、マドリードのFilmotecaで、2010年にはニューヨーク近代美術館で開催した。彼女はブログやメッセージボードを、www.sallypotter.comで掲載している。

ポッターは2012年の国王誕生日に行われる叙勲にて、大英帝国勲章を受章した。

監督作品

出典

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外部リンク

  • [1]
  • "I came from an atheist background and an anarchist background, which meant that I grew up in an environment that was full of questions, where nothing could be taken for granted." Fowler, Catherine (2009). Sally Potter. Chicago: University of Illinois Press.
  • R.T. (24 June 1993). "Introducing 'Orlando' Director: Q&A with Sally Potter". Rolling Stone (659): 90.
  • "Choreography was the perfect 'poor theatre.' All you needed were willing bodies and some space. So it was as a choreographer that I learnt how to direct and it was as a dancer that I learnt how to work" Potter, Sally (1997). The Tango Lesson. London: Faber and Faber.
  • Fowler, Catherine (2009). Sally Potter. Chicago: University of Illinois Press.
  • "I have come to the conclusion that I can't use that term in my work. Not because of a disavowal of the underlying principles that gave birth to that word – the commitment to liberation, dignity, equality. But it has become a trigger word that stops people's thinking. You literally see people's eyes glaze over with exhaustion when the word flashes into the conversation.” Frilot, Shari (Summer, 1993). "Sally Potter". BOMB (44): 30–35. Retrieved 3 May 2012.
  • "I knew that I had to perform in this one because the impetus for the film came out of my own desire to dance.” Potter, Sally (1997). The Tango Lesson. London: Faber and Faber.
  • "Originally I was trying to figure out how we could shoot this film without any lights, because there didn't seem to be enough money in the budget to have any. One solution was to shoot at six frames a second, or even three. Later you print each frame four (or eight) times to bring it into sync at twenty-four frames per second. You can shoot almost in the dark, and still see people's faces...we did some tests and found that it was very beautiful; so I decided to make it part of the language of the film." Potter, Sally (2005). Yes: Screenplay and Notes. New York: Newmarket Press.