カミッロ・カヴール

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テンプレート:政治家 カミッロ・ベンソ・コンテ・ディ・カヴールCamillo Benso, Conte di Cavour1810年8月10日 - 1861年6月6日)は、19世紀イタリア政治家サルデーニャ王国首相、イタリア王国首相(閣僚評議会議長・初代)、外務大臣(初代)を歴任。

ガリバルディマッツィーニと並ぶ「イタリア統一の三傑」と称される。「コンテ・ディ・カヴール」は「カヴール伯爵」の意味で、家族名は「ベンソ」。

概要

1810年、カヴールミケーレ・アントニオ・ベンソ(Michele Antonio Benso, Marchese di Cavour)の第2子として当時フランス帝国領であったトリノにて出生

1852年サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世によって首相になる。イタリア統一戦争では、外交により統一戦争を進めた。

カヴールは徹底した現実主義者で、無秩序と反動を招く革命は非生産的であると主張した。そのため、革命主義者で、妥協を許さない共和派であるマッツィーニとは馬が合わなかったといわれる。また彼は、議会の操縦術に長けた人物で、彼自身「議会が閉会中の時ほど無力感を覚えることは無い」と語っている。このおかげで、彼は下院に強力な政治基盤を築くことに成功し、1861年に死ぬまで、1859年に辞任し下野した半年間を除き、首相の座にあった。

カヴールはサルデーニャ王国近代化のための政策を積極的に推し進め、近代産業の育成・軍隊の近代化を進めた。通商協定がイギリスフランスオーストリア、その他各国との間で結ばれ、全般的に自由貿易関税が導入された。また、都市間の物流・交通を円滑化するために、全国の鉄道網を整備した。さらに国家財政の基礎を固めるために、強い反対を押し切って修道院を解散し、その土地を国有化した(1855年)。この過程で、カトリック信者のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は司教たちと共謀し、カヴールの提出した修道院廃止法案の可決を妨害した。これに憤激したカヴールは首相を辞したが、国王は彼に変わる保守派の政治家を見出すことができなかった。そのため、恥を忍んで再びカヴールを首相に指名せざるを得なかった。この「カラビアーナ事件」を契機に、カヴールは議会に続いて国王までもある程度コントロールできるようになった。

その一方で、カヴールはサルデーニャ単独ではオーストリアを破って統一を達成することは不可能と考え、イギリス、フランスなど大国の援助が必要であると考えた。そのためイギリス、フランスと同盟を結んで1855年クリミア戦争(1853年 - 1856年)に参戦し、1万5千の将兵をクリミア半島に送り、サルデーニャの国際的地位の向上に努めた。 結果としてカヴールは1856年パリ講和会議に列席し、イタリアの窮状を各国に訴えるという当初の目的を果たした。

さらに、1858年7月、カヴールはナポレオン3世との間にプロンビエールの密約を結び、フランス軍の対オーストリア参戦を約束させた。

1861年、マラリアにより死亡。内に共和派の突き上げ、外に大国(オーストリア・フランス)の干渉という難題を抱えながら、卓越した外交術を駆使してイタリア統一を成し遂げた功績から後世「神がイタリア統一のため地上に使わした男」の呼び名が付いた。

関連項目

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