オノーレ・ミラボー

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ミラボー伯爵オノレ・ガブリエル・ド・リケッティテンプレート:Lang-fr-short, 1749年3月9日 - 1791年4月2日)は、フランス革命初期の中心的指導者である。一般的には、単にミラボーと呼ばれる。「政略のミラボー」の異名をとる。

生涯

ミラボー侯爵の次男で、革命前から学識と放蕩者としての評判ですでに庶民の間でも有名であり[1]1789年全国三部会では、貴族の出身として第二身分議員の資格もあったが、演説の才能は抜きんでていたので、エクス=アン=プロヴァンスの第三身分議員としても選出され、本人は二つの当選から敢えて第三身分議席を選んで会議に臨んだ。1789年6月23日、三つの身分の代議員を招集した会議で代議員を国民の代表とみなす発言をした。革命の初め頃の彼の果たした役割は重要なものであった。選挙民に会議の報告書を送り、ヴェルサイユで今何が起こっているかをフランス全土に知らせた。三つの身分の会合は彼の提案によるもので、国民議会を支配した。しかし、ロベスピエールによって変わられていった[2]

ブルジョワ的立場から初期の革命を主導し(イギリス型)立憲君主制を主張したが、同じ開明貴族のラファイエットや三頭派ら政敵の妨害によって、念願であった大臣就任はいつも阻まれた。雄弁と、その開放的な庶民性から国民に絶大な人気があったものの、絶頂期に突如として病死し、死後にルイ16世と交わした書簡と多額の賄賂の存在が暴露されて、名声は地に落ちることになった。

一方で、ミラボーという強力な王制護持論者の死によって、王室は立憲議会との太いパイプを失った。革命の進展に対する不安に駆り立てられたルイ16世と王妃マリー・アントワネットは、王妃の実家であり敵国でもあるオーストリアに助力を求め、国王一家亡命未遂事件を起こすが、この事件は国王と王室に対する民衆の信頼を失墜させ、革命のさらなる急進化を誘い、その後の8月10日事件、ひいてはルイ16世、マリー・アントワネットのギロチンによる処刑、ブルボン王政の終焉に繋がった。

脚注

  1. 1772年から1782年にかけて、7年間幽閉されていた。しかし、1772年には『専制政治論』を書いている。投獄されている間に政治手覚書を多数書いている。(フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編者、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅱ ルネサンスー啓蒙時代 原書房 2004年 467ページ)
  2. フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編者、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅱ ルネサンスー啓蒙時代 原書房 2004年 468ページ

参考文献

  • ミラボーとフランス革命 井上幸治 木水社, 1949年

関連項目

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