オトラント海峡封鎖

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オトラント海峡封鎖(オトラントかいきょうふうさ, Otranto Barrage)は、第一次世界大戦における、連合軍によるオーストリア=ハンガリー帝国海軍の封鎖作戦。オトラント海峡イタリアブリンディジアルバニアコルフ島の間の狭い海峡であり、そこを海上封鎖することにより、オーストリア海軍艦艇が地中海に進出し、連合軍の脅威となることを防ぐことを目的としていた。封鎖は水上艦の阻止には有効であったが、カッタロに基地を置いていた潜水艦にはほとんど効果がなかった。

概要

オトラント海峡の幅は約100キロメートルである。封鎖線は、鉄製の対潜網とトロール船などにより構成されていた。1915年に封鎖が開始されたときは、約20隻が哨戒活動についていた。対潜網は、潜水艦の捕捉および水上艦艇の航行妨害のために設置されていた。さらに、駆逐艦や航空機がトロール船の支援に当たっていた。しかしながら、ガリポリの戦い等に戦力が割かれたため、1915年から1917年に間に対潜網に捕らえられた潜水艦はU-6ただ1隻のみであった。

オーストリア海軍は封鎖部隊に対し夜襲を繰り返した。夜襲は、1915年には5回、1916年には9回、1917年には10回行われた。その内最大のものは1917年5月14から15日の夜間に行われたものであり、オトラント海峡海戦と呼ばれる。この時はホルティ・ミクローシュが率いるオーストリアの巡洋艦ノバラ、ヘルゴラント、サイダと駆逐艦Csepel、Balaton、3隻の潜水艦が14隻のトロール船を沈めた。Alfredo Actonが率いるイギリス巡洋艦「ダートマス」、「ブリストル」とイタリア、フランスの駆逐艦数隻はブリンディジからオーストリア艦隊の迎撃に向かった。交戦の結果、オーストリア側は「サイダ」が損傷、「ノバラ」は大破し、ホルティも重傷を負った。しかし、オーストリアの主力艦隊が現れたためイギリスの巡洋艦は交戦を中止した。ダートマスは帰投中潜水艦の雷撃を受け損傷した。また、フランスのブークリエ級駆逐艦「ブトゥフー(Boutefeu)」は触雷し沈没した。

ファイル:Bundesarchiv Bild 134-C2280, Szent István, Sinkendes Linienschiff.jpg
イタリア海軍に撃沈された「セント・イシュトヴァーン」

1918年6月、オーストリア海軍はプーラにあったフィリブス・ウニティス級戦艦4隻を持って封鎖網へ攻撃を行うことを決定した。アドリア海へ向かう途中、6月10日、弩級戦艦セント・イシュトヴァーン」はイタリア魚雷艇MAS-15の雷撃を受け撃沈された。このため、攻撃は中止された。

1917年、1918年にはオーストラリアとアメリカ海軍からの増援により封鎖部隊は、駆逐艦35隻、トロール船52隻と他に100隻以上の艦艇からなるまでに増強された。しかし、戦争終結まで潜水艦の阻止はほとんど成功しなかった。

外部リンク

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