ウンデット・ニーの虐殺

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ウーンデッド・ニーの虐殺現場

ウンデット・ニーの虐殺(ウンデット・ニーのぎゃくさつ、Wounded Knee Massacre)は、1890年12月28日サウスダコタ州ウーンデッド・ニーで、ミネコンジュー他のスー族インディアンのバンドに対して、米軍の第7騎兵隊が行った民族浄化

この虐殺を白人側は「ウーンデッド・ニーの戦い」と呼び、虐殺を実行した第7騎兵隊には議会勲章まで授与されている。しかし、インディアン側ではこれを「ビッグ・フット一行に対する虐殺」と呼んでいて、インディアン戦争の象徴にもなっている。

発端

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1890年8月、シャイアン川のほとりに集まり、「ゴースト・ダンス」の準備をするシハ・タンカ・バンド。この4ヶ月後に彼らは米軍によって皆殺しにされる

19世紀末、インディアンたちは白人によって生活環境を破壊され、絶望のどん底にあった。そんな中、パイユート族テンプレート:Enlinkウォヴォカテンプレート:Enlinkを教祖とするゴースト・ダンステンプレート:Enlinkが西部のインディアンたちの間で爆発的に流行した。ゴースト・ダンスとは、「ゴーストダンス(幽霊踊り)を踊ることで、再びインディアンたちの自由な世界とともにバッファローたちが草原に還ってくるという終末的信仰で、スー族のもとで呪術師マト・ワナタケ(キッキング・ベア)によって、「これを信じるものに与えられる『ゴースト・シャツ』を着れば、白人の銃弾を受けても弾が通らず平気になる」という教義が加えられた。

白人側は、この教えによってインディアンたちが反抗的になるとして、徹底的に弾圧した。スー族から無能な臆病者として「ラコタを怖がる若造」と呼ばれ蔑まれていたパインリッジ保留地の監督官ダニエル・F・ロイヤーは、むやみにインディアンを怖がり、ゴースト・ダンスの流行をスー族反乱の予兆と捉え、1890年の11月半ばに「雪の中でインディアンが踊り狂い、凶暴になっているから、今すぐ我々を保護して欲しい」と合衆国政府に電報を打った。この報告を受け、数千人の米軍がスー族の保留地に続々とやって来た。白人による虐殺を恐れ、多くのスー族が西方の岩山地帯マコシカ(バッドランズ)に逃げ込んだ。

さらにスタンディングロック保留地監督官のジェームズ・マクローリンは、スー族の精神的支柱であるシッティング・ブル(タタンカ・イヨタケ)に「ゴーストダンスを煽っている」と濡れ衣を着せ、1890年12月14日、スー族インディアン警官を使って彼を暗殺させた。

この大戦士の死に西部が騒然とするなか、シッティング・ブルを慕っていた同じキャンプのスー族たち(ほとんどが子供や老人、そして非武装の男女だった)は飢えと寒さに耐えかねて、マコシカを下り、川をさかのぼって、南方160キロのグッド川(シャイアン川)そばにいた、ビッグ・フット(シハ・タンカ、テンプレート:Enlink酋長の属するミネコンジューテンプレート:Enlinkのビッグフット・バンドの元へ逃れた。

400人近いこのバンドの中で、戦士は100人ほどしかおらず、残りは年寄りや女・子供だった。ビッグフット酋長は肺炎を患っており、トラボイ(地引橇)で運ばれていた。

ミネコンジューは、オグララ・スー族テンプレート:Enlinkの支族のひとつで、シハ・タンカ酋長の属するバンドは、ゴースト・ダンスを信奉していた。ゴースト・シャツを持つ彼らの元なら、その奇跡の庇護を受けられると考えたのである。上記の一団が合流して、ミネコンジュー族の約400人のビッグ・フットバンドの一団は年金(食料)の補給を受けるために、ミズーリ川近くのベネット砦の保留地管理事務所へ向かっていた。

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「シハ・タンカ(膨れた足)」。タタンカ・イヨタケ(シッティング・ブル)のいとこで、「斑の鹿」とも呼ばれる

インディアンの社会では、酋長とは揉め事の矢面に立ち、和平の交渉を行う「調停者」であり、「首長」や「指導者」ではない。しかし白人(スー族の呼ぶところのワシチュー)たちは、「酋長(チーフ)」を「指導者」だと思い込んでいる。「ゴーストダンス」がスー族の中で流行した際には、タタンカ・イヨタケ(シッティング・ブル)をこの宗教の扇動者だと決めつけ、ついには暗殺している。しかし、インディアンの社会は合議制であって、部族民は誰かの指示で行動するような文化にない。酋長はあくまで調停者であって、部族を「率いる」ような立場ではない。

シハ・タンカは、和平交渉者として人望厚かった老酋長で、白人とは友好派で、「賢く分別ある調停者」と呼ばれていた。しかし、白人は終始、この一団はシハ・タンカ(ビッグフット)が「率いている」と思い込んでいる。彼はこのとき、すでに肺炎で余命いくばくもない身体であった。BIA(インディアン管理局)の保留地監督官はゴースト・ダンスを信奉するビッグ・フット一行の動きを警戒し、彼を逮捕すべく、第8騎兵連隊E・V・サムナー大佐が差し向けられた。

ポーキュパイン崖の近くで、米軍は移動中のこのインディアンの集団に襲いかかり、彼らはただちに降伏した。サムナーの詰問に対し、ビッグ・フットは穏やかに、交戦の意思がないこと、シッティング・ブルのキャンプから逃げた部族員を匿ったのは、「38人の男女が腹を空かし、足を痛め、雪の中裸同然でいたのを発見したからだ。心ある者なら誰でも同じ事をしただろう」と説明した。「調停者」であるビッグフットは、部族員の幸せを図る立場であるから、当然こう答えたのである。

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スー族虐殺を指揮したジェームス・フォーサイス大佐

これに対しサムナーは、西方のシャイアン族のキャンプまで同行するよう命令し、彼らはおとなしく従った。サムナーたち白人は、ビッグフットが彼らのバンドの「指導者」だと勘違いしているので、ビッグフット個人に対してあれこれ指示を出しているのである。彼らの、「冬の村」まで来たところで、ビッグ・フットは「もう家に帰るつもりだし、なにも追い立てられる理由はない、これ以上先へ行くつもりはない」、とサムナーに告げた。ところが、その夜に東方から更なる騎兵隊が到着すると聞いて、彼らはおびえ浮き足立ち、マコ・シカ(バッドランズ)へ向けて逃亡する者が出た。

スー族たちインディアンの社会は高度な個人主義であり、支族集団から小さなバンドに至るまで、誰かに統率されているような社会ではない。部族民が米軍に脅えて逃げだしたところで、酋長(調停者)であるビッグフットには何の責任もない。

12月28日、彼らは「逃亡者を追い、逮捕せよ」とのマイルズ将軍の命により、S・M・ホイットサイド少佐の騎兵隊に追跡され捕まった。ビッグ・フットはそれ以上の争いを避けるために白旗を掲げて降伏を告げた。彼らはサムナーに命令されてウーンデッド・ニー河畔まで連行された。ここで野営を張るよう命令され、彼らはティピーを建てた。彼らのキャンプを、リトルビッグホーンの戦いで壊滅した第7騎兵隊の残党を含む、ジェームス・フォーサイス大佐指揮下の、総勢470名、騎兵4個中隊と砲兵1個中隊が包囲した。フォーサイスは肺炎のビッグ・フットのためにストーブを用意させた。夜になると兵士たちは、「暖をとるため」と称してウィスキーの樽を開け、どんちゃん騒ぎを始めた。この現場から24㎞ほど離れたシャイアンクリークそばには、同じスー族の野営地があり、町から続々進軍していく米軍を見て、彼らは不安感を募らせていた。この野営の中には、ブラック・エルクもいた。

虐殺

1890年12月29日、 朝がた、フォーサイスはインディアンたちの武装解除に取り掛かり、4門の速射砲ホッチキス銃を、四方のキャンプを見下ろせる丘に据えさせた。8時ごろ、インディアンたちが軍の前に半円状に座った。フォーサイスは「20人ずつ銃を持って来い」と命令した。

生き残りの一人、ドッグ・チーフによれば、彼らの銃や武器はビッグフット酋長のティーピーの横に積み重ねられた。が、まだ武器を差し出していない戦士がおり、フォーサイスは兵士に命じ、ティピーに押し入って無理やり銃を探させた。寝ている女の毛布を剥がす者もいた。この陵辱行為に人々は怒り、キャンプは一触即発の緊張状態となって、にらみ合いとなった。イエロー・バードという戦士ともう一人の戦士がビッグフットのティーピーの前に立っており、二人とも身体に白いシーツを巻きつけ、眼だけ覗かせていた。彼らはシーツの下に銃を隠し持っていた。一人の白人士官がこの一人から銃を取り上げ、イエローバードからも銃を奪おうとした時、揉み合いになった。このとき、銃が誤射され、白人士官を射殺してしまった。ドッグ・チーフはそばで一部始終を見ていたが、「完全な事故だった」と証言している。

これをきっかけに、ついに米軍はインディアンに対する無差別虐殺を開始した。無抵抗の病人のビッグ・フットは、間もなく、ティーピーに押し入った兵士に頭に弾を撃ち込まれて殺された。兵士達の多くは、まだゆうべ飲んだウィスキーが頭に残っていた。

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ウーンデッド・ニーの谷間。スー族や馬の死体が放置されている

軍は丘の上から速射ホッチキス砲で無差別砲撃を加えた。さらに新鋭のスプリングフィールド銃テンプレート:Enlinkで馬も犬も子どもも狙い撃ちし、皆殺しにした。100人弱の戦士たちは、没収された銃を手にするまでは素手で虐殺者たちと戦った。イエローバードは銃をとってティーピーに立てこもり、白人を狙い撃ちした。ティーピーに火が放たれ、全身に銃弾を浴びるまで勇敢に戦った。

銃・砲弾の降り注ぐ中、インディアンたちはそれでも3キロばかり逃げたが、負傷のためにそこで力尽き、倒れていった。部族員のほとんどが武器を持たず、それを四方から取り囲んだ兵士達が銃撃した。白人は29人死んだ。白人側の負傷者は39人だった。カスターの部下だった士官もいたが、彼は味方の攻撃の巻き添えを食って死んだのである。それほどまでのすさまじい無差別銃撃だった。

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虐殺の3週間後。死体には毛布がかけられている

「ホッチキス砲は1分間で50発の弾を吐き、2ポンド分の弾丸の雨を降らせた。命あるものなら何でも手当たりしだいになぎ倒した。この(子供に対する3キロ余りの)追跡行は、虐殺以外何ものでもない。幼子を抱いて逃げ惑う者まで撃ち倒された。動くものがなくなってようやく銃声が止んだ」と、兵士の一人は回想している。

また、「これまでの人生で、このときほどスプリングフィールド銃がよく出来ていると思ったことはない」と、ある白人士官が言葉を残している。乳飲み子もたくさんいたが、米兵はこれも無差別虐殺した。「この幼子達が身体中に弾を受けてばらばらになって、穴の中に裸で投げ込まれるのを見たのでは、どんなに石のように冷たい心を持った人間でも、心を動かさないではいられなかった」と、埋葬隊の一人は言葉を残している。

この無差別虐殺は、発生直後にその報がシャイアンクリークの野営にも届き、直ちに20騎ばかりのスー族戦士団が虐殺現場へと馬で駆けつけた。米兵は彼らに発砲したが、すぐに退却した。救援の戦士団は、ワゴン砲の砲撃でばらばらになったたくさんの死体を見た。こときれた母親の胸で、乳を吸おうと泣き叫ぶ赤ん坊もいた。死んだ母親のショールに包まって生きていた赤ん坊が3人いた。救援に駆け付けたスー族戦士のブラック・エルクとレッド・クロウは転がっている赤ん坊をそれぞれ一人ずつ見つけ、ショールでくるんで連れ帰った。この二人の赤ん坊はスー族が引き取ったが、白人に連れ去られた赤ん坊もいた(→ロスト・バード)。峡谷では、二人の男児が銃を持ち、米兵と闘い、これを射殺していた。勇敢なこの二人の少年は、全く傷を負っていなかった。

応援の戦士団に対し、退却した米兵は濠を掘って応戦した。夕方になって米兵は去り、ブラック・エルク達はようやく虐殺の全容を把握した。彼はこのとき、「自分も死ねばよかった」と思ったという。虐殺された人々に対しては、哀れみや同情よりも、「いっそ白人の支配するつらいこの世に別れ、あの世で幸せに暮らすほうがいいかもしれない」と思ったと語っている。かれらはワシチューに対する復讐を誓った。ブラックエルクたち救援の戦士団はパインリッジの保留地に戻ったが、一度退却した米軍が追跡してきた。パインリッジのスー族はティーピーを置いたまま逃げていた。

虐殺のあと

12月30日の朝、ブラックエルクたち保留地のスー族はウーンデッド・ニーに向かった。ホワイトクレイ・クリークのそばのキリスト教伝道所の近くですでにスー族同胞による戦闘は始まっており、両岸に待機したスー族は川沿いに下ってくる米兵を攻撃していた。伝道所の白人尼僧たちは、負傷したスー族の手当てをしてくれた。スー族の攻撃は米兵を圧倒し、これを全滅させる勢いだったが、このあと「黒いワシチュー(黒人兵)」の一団が加勢してきて、結局スー族は退却した。

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「埋葬」の様子

この大量虐殺で、インディアン側の死者は300人近くに上り、豪雪の中、彼らの死体は雪の上に連なり、それは3日間、放置された。重傷を負った部族員女性は、治療のために「ゴースト・シャツ」を脱がせてよいかとの白人医師の問いにうなずき、「弾丸が通らないと言われていたのに。もうこんなものはいらない」と答えたとされる。インディアンの自由な世界が還って来るとされるゴースト・ダンスは、この大虐殺を機に、一挙に下火になっていった。兵士たちは、死んだインディアンたちから衣服や記念品を剥ぎ取った。「ゴースト・シャツ」を面白がって制服の下に着込む者もいた。

1891年1月1日、埋葬隊が派遣された。銃座が置かれた丘の上に、ひとつだけ穴が掘られた。彼らの遺体は一人あたり2ドルの手間賃で、民間人アルバイトによって無造作にこのひとつだけ開けられた土の中へ投げ込まれた。

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ウーンデッド・ニーの虐殺の慰霊碑

このビッグフット一行の死者数に関しては、虐殺した側と虐殺された側とで証言が食い違っている。白人側は150人から多くて200人程度だとし、スー族側は300人、またそれ以上の数を挙げる向きもある。どちらにしろ、白人側は殺したスー族を上記のようにぞんざいに扱って、その数を全く数えなかったし、未だにきちんとした検証も行われていない。スー族の主張が感情に流れるのは自然なことであろう。

「ゴースト・ダンスの上着」の返還

1999年8月1日、スコットランドグラスゴーにある「ケルビングローブ美術博物館」から、スー族に対し、「ゴースト・ダンスの上着」の返還が行われた。この「ゴースト・ダンスの上着」はケルビングローブ美術博物館館長のパトリシア・アレンによれば、「ウーンデッド・ニーの虐殺」で死んだ戦士から剥ぎ取られ、1891年にバッファロー・ビルの「野生の西部ショー」のグラスゴー巡業の際に、ショーの通訳だったジョージ・クレイガーという人物によってモカシンや他の物品とともに「インディアンの珍奇品」として同博物館に持ち込まれたものである。

1992年9月、英国ツアー中に当博物館を訪れ、これを発見したジョージア州ウッドストックのインディアン弁護士、ジョン・アールによって、この遺品のスー族に対する返還要求が起こされた。同博物館では当時、「コロンブスによるアメリカ“発見”500周年記念展示」として、マクミラン・ギャラリーで「ゴースト・ダンスの上着」が展示されていた。アールは帰国後、スー族の遺族会にこれを報告し、アート・ギャラリーと博物館を管轄するグラスゴー地区議会の管理部門までたどって、ジュリアン・スポールディング館長に手紙を書き、正式に博物館側に遺品の返還を要求。しかし博物館はこれを拒否した[1]

1995年に、スー族の「ウーンデッド・ニー遺族会(Wounded Knee Survivors' Association)」はマルチェラ・ラ・ビューを特使とし、この遺品の返還を博物館側に強く要望した。「ゴースト・ダンスの上着」は、現在もスー族社会で神聖視されているものである。ラ・ビューはこう述べている。

「私の肩にはこの大きな責任が課せられました。私はまっとうなことを言って、正当なことを要求する必要があったんです。」

しかし、グラスゴー博物館はこれが「アメリカ本土以外ではここにしかない希少品」であり、「英国の市民に、ゴーストダンスとウーンデッドニーの虐殺の歴史を教育するのに欠かせないものとして、ここに保管されるべきである」と主張。1997年春には、この「ゴーストダンスの上着」他の虐殺遺品はグラスゴーで、小学生教育のための展示会に出展された。

1998年、ジョン・アールと「ウーンデッド・ニー遺族会」、博物館、グラスゴー市参事会の6年越しの交渉の結果、市参事会はついに全会一致で遺品の返還を決定。107年の時を経て、晴れてスー族の許へと返還されることとなった。この決定に対し、「ウーンデッド・ニー遺族会」で返還運動を続けていたスー族遺族のマルチェラ・ラ・ビューは感涙し、「私たちはグラスゴー市とその周りの地域の友情と、圧倒的な支援に感謝します」と謝辞を述べた。

1999年7月末に、「ゴースト・ダンスの上着」を返還するため、グラスゴー評議員や美術館スタッフを含む代表団がサウスダコタを訪問。彼らはこの訪問で、「米国外からのこのような遺品の返還はアメリカ政府は全く予期しておらず、アメリカ本国の法律の限界を浮き彫りにした」と述べている。スー族国家とグラスゴーの間で、晴れて大虐殺の遺品は正式に返還された。

同年8月1日の日曜日、サウスダコタのシャイアン川保留地にあるイーグルビュットで、グラスゴー代表団が出席した返還式典が行われた。スー族はこの歴史的な返還を祝い、大虐殺の被害者と生存者の子孫の大半が参加して、4日間にわたる儀式を行った。グラスゴー代表団はスー族遺族団とともにパインリッジ保留地のウーンデッド・ニーまで移動した。 スー族にとって古い精霊たちの守護者である「ワーワヤンカ(斑鷲)」が上空を飛び交い、スー族はこれを「償いのしるしと精霊からの歓迎メッセージ」と述べた。

翌8月2日、 同州ピエールの州議会議事堂で式典が締結され、「ゴースト・ダンスの上着」はスー族が独自の美術館を持つようになるまで、サウスダコタ州歴史協会博物館で保管されると決定した[2]

2009年8月1日、「ゴースト・ダンスの上着」の返還10周年記念式典が開かれ、ダン・ブロスツによって上着が輸送された。ブロスツはこう述べている。

「北アメリカのインディアンの民具がアメリカ合衆国へ戻り、インディアンの国に返還されたのはこれが初めてでした。明らかにこれはウーンデッドニー遺族会とラコタの人々にとって重大な意味を持っています。これがサウスダコタに戻ったということだけでなく、インディアン以外の人々が我々の共有する文化を学べるということに、もう一つ大きな意味があります。」

返還10周年式典では名誉のロウソクが灯され、ウーンデッドニーの虐殺で殺されたスー族被害者たちの名前が読み上げられた[3]

ウーンデッド・ニー再現行

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スー族有志による「ウーンデッド・ニーの死の旅」の雪中再現行

現代になって、このときのスー族の苦しみを体験し、一族の誇りを再確認するべく、子供も含めたスー族の有志数十人によって、虐殺日に合わせてビッグ・フット一行のとった行程を再現して辿る試みが、毎年極寒の大平原において騎馬で行われている。

脚注

  1. 『Herald Scotland』(1993年11月15日記事)
  2. グラスゴー大学アンドリュー・フック・アメリカ研究センター、「Glasgow's Ghost Dance Shirt 」
  3. サウスダコタ公共放送「Dakota Digest」、2009年8月6日記事

参考文献

  • Hehaka Sapa(Black Elk)& Neihardt,John.Black Elk Speaks:(1932).
  • Brown, Dee. Bury My Heart at Wounded Knee: Owl Books (1970).
  • Capps,benjamin.THE GREAT CHIEFS:TimeLifeBook (1976).
  • McMurtry,Larry.CRAZY HORSE:Penguin Life(1999).

関連項目

リトルビッグホーンの戦い」や本項のウンデット・ニーの虐殺を含むアメリカインディアンの歴史を描く。
『我が魂を聖地に埋めよ』のテレビフィルム化。テレビ界の様々な賞を獲得。

外部リンク