ウォルター・ラッセル・ランバス
テンプレート:Infobox 人物 ウォルター・ラッセル・ランバス(Walter Russel Lambuth、中国名は藍華徳。 1854年11月10日 - 1921年9月26日)は、アメリカの宣教師、医師、教育者。日本において関西学院の創設に尽力した。大分リバイバルを起こした人。
生涯
1854年に宣教師で教育者のジェームス・ウィリアム・ランバスの子として清国上海に生まれる。1875年5月、名門エモリー・アンド・ヘンリー大学卒業。ヴァンダービルト大学大学院で神学博士と医学博士の学位を取得[1]。アメリカ南メソヂスト監督教会(MECS)のジャパン・ミッションとして、父とともに1886年(明治19年)に上海経由で来日[2]。
1886年11月24日、MECSジャパン・ミッションの総理として神戸に着任し、南美以神戸教会(現在の日本基督教団神戸栄光教会)初代牧師に就任する。着任二日後の11月27日に、その居館である神戸外国人居留地四十七番館の2階に読書館を設け、英語学校(後のパルモア学院)を開く[3]。1888年に、関西学院創立に着手。1889年(明治22年)に、神戸市郊外の原田村、いわゆる「原田の森」(現在の神戸市灘区王子町)にWest Japan College、すなわち関西学院を創立し、初代院長となる。1890年12月16日、妻の病のため、離日。1910年(明治43年)に最高職の監督 (bishop) に就任、以後ブラジル、アフリカ大陸、ロシア・シベリア、中国の伝道にたずさわる。1921年(大正10年)に、軽井沢で宣教師会開催のため再来日するが、発病により、入院先の横浜にて死去。神戸市立外国人墓地に葬られた。
1897年に広島美以教会(現在の日本基督教団広島流川教会)2代目牧師に就任。その頃、父ジェームスは神戸に、ウォルターは広島に居住。ともに瀬戸内海沿岸の広域伝道に着手。
1889年(明治22年)に大分美以教会(日本基督教団大分教会)を訪れて、除夜祈祷会で祈っていると激しく聖霊を体験して、信仰復興運動が起きた[4]。 テンプレート:Main
テネシー州ジャクソンに所在するテンプレート:仮リンクは、ウォルター・R・ランバスの名誉を称えて改名されたものである。