イタリア共産党

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テンプレート:政党 イタリア共産党(イタリアきょうさんとう、テンプレート:Lang-it-short, PCI)は、イタリアにかつて存在した政党共産主義を掲げた政党だった。左翼民主党へ移行するまでは、トスカーナ州エミリア=ロマーニャ州ウンブリア州を基盤とし、西側諸国における共産党としては最大の勢力を有していた。

党史

1921年1月、リヴォルノゴルディーノ劇場イタリア社会党(PSI)第17回大会が開催される中、「共産主義派」はアマデーオ・ボルディーガの呼びかけにより、サン・マルコーニ劇場に集まり、コミンテルン支部・イタリア共産党の創立を宣言。ニコラ・ボムバッチアントニオ・グラムシパルミーロ・トリアッティらも参加。同年5月15日の総選挙で30万票を獲得し、16人が当選。1922年10月、ベニート・ムッソリーニが政権を掌握すると、アマデーオ・ボルディーガら党幹部が次々に逮捕され、組織分解。1924年5月アントニオ・グラムシが帰国し、非合法に共産党第1回全国協議会を開催するが、1926年パリに指導部が亡命。

いわゆるサレルノの転換により、1945年6月から1947年5月まで挙国一致政府に参加。トリアッティが副首相、次いで法務大臣に就いた。1956年12月、第8回大会で「社会主義へのイタリアの道」いわゆる構造改革路線を採択。イタリア共産党はムッソリーニ政権を打倒したパルチザンの中心的な役割を担っていたことなどから、西側諸国の共産党では異例の高い支持率を誇った。

1970年代には、エンリコ・ベルリンゲル書記長の主導により党綱領から「マルクス・レーニン主義」や「プロレタリア独裁」を放棄し、「ユーロコミュニズム」路線や「歴史的妥協」を推進し、議会選における得票率が30パーセント代に伸長。北部イタリアをはじめとする地方自治体の長を数多く輩出した。

ソ連による1968年チェコスロヴァキア侵攻1980年アフガニスタン侵攻には公然と非難した。

1980年代には、ドイツ社会民主党社会主義インターナショナルに接近。

1988年6月、アキレ・オケットを書記長に選出。1991年2月、最後の第20回党大会で左翼民主党(PDS、のちの左翼民主主義者)への移行が決定される。アルマンド・コスッタファウスト・ベルティノッティらは共産主義再建党(PRC)を結成。1998年ロマーノ・プローディ政権参画への対応を巡って、アルマンド・コスッタらは、再度分党しイタリア共産主義者党(PdCI)を結成した。

2006年には、党の議員団長も務めたジョルジョ・ナポリターノが第11代イタリア大統領に就任した。初の共産党出身の大統領となった。

歴代書記長

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