イエン・サリ

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テンプレート:政治家 イエン・サリテンプレート:Lang-km / Ieng Sary, 1925年10月24日 - 2013年3月14日)は、カンボジア政治家民主カンプチア政権で副首相、外相を歴任。死去するまでクメール・ルージュ内部で第3位の地位にあったといわれる[1]

経歴

イエン・サリは1925年、フランス領インドシナコーチシナのカンボジア系少数民族の裕福な地主の家に生まれた[2]。誕生時の名はキム・チャン (Kim Trang) で、父親が亡くなり、プレイベン州の親類に引き取られた時に、イエン・サリと名付けられた[3]

当時の最高学府であるシソワット高校に進学し、そこで妻となるイエン・シリトと出会う。1951年からパリに留学し[4]、同年現地において結婚した。シリトの姉キュー・ポナリーが、後にポル・ポトと結婚すると、サリとポル・ポトは義兄弟となる。

1957年に帰国し[5]、その後は私立カンブボット高校において教鞭をとり[6]。1960年9月のクメール人民革命党第2回党大会において党中央委員に選出され、党内序列第5位となった[7]

さらに1963年2月の党大会において党政治局員に選出され、序列第3位へ昇格した[8]。同じ頃、カンボジア各地において暴動が起き、政府の作成した「破壊活動分子34人」に名を連ねることになった。1963年5月に地下潜伏し、東部コンポンチャム州の「第100局」基地に移った[9]

ロン・ノル将軍のクーデター後、1971年9月にカンプチア王国民族連合政府の「政府国内特使」という肩書を得て、北京のシハヌークの目付け役となる[10]

1976年の民主カンプチア政権の樹立後、4月14日にポル・ポト内閣の副首相兼外務大臣に任命され[11]、1979年まで務めた。

1979年にベトナム軍が侵攻すると、西部国境沿いに逃れ、そこでゲリラ戦を展開する。1996年に政府軍に降伏するまでパイリンを拠点に、クメール・ルージュ支配区の西部地域を支配していた。同地域は宝石と木材の産地で、タイとの取引で莫大な利権を生み出し、さらに住民の間に現金経済を徐々に浸透させていた[12]。この「資本主義的傾向」が、北部アンロンベンの強硬派幹部たちを激怒させ、最強硬派のタ・モクが住民の私有財産を没収する命令を出すに至る[13]。これらのイデオロギー的な確執と、利権をめぐる対立から、2人の軍司令官により説得され、1996年8月8日にサリは3千人の兵士と共にプノンペン政府に投降した[14]。9月14日にはラナリットフン・セン両首相の要請により、シハヌーク国王がサリの恩赦に署名し、これにより1979年8月の人民裁判における死刑判決が取り消され、また非合法化されたクメール・ルージュに加わっていた罪が問われなくなった[15]。同時にパイリンが事実上、彼の統治下に置かれた。しかし2004年7月に心臓発作を起こし、治療のためタイに送られた。

しかし国際社会の努力とカンボジア政府の力でポル・ポト政権時代の虐殺が裁かれるカンボジア特別法廷が設置され[16]

2007年11月、プノンペンの自宅で「戦争犯罪」と「人道に対する罪」で逮捕、翌年には妻のイエン・シリトも逮捕された。2010年9月、他の幹部らとともに起訴され[17]、裁判を受けていた。

2013年3月14日、プノンペンの病院で死去[18]テンプレート:没年齢

親族・家族

脚注

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参考文献

  • デービッド・P・チャンドラー 『ポル・ポト伝』 めこん、1994年。ISBN 9784839600884。
  • 井上恭介、藤下超 『なぜ同胞を殺したのか-ポル・ポト 堕ちたユートピアの夢』 日本放送出版協会、2001年。ISBN 9784140806326。
  • 山田寛 『ポル・ポト<革命>史-虐殺と破壊の四年間』 講談社<講談社新書メチエ>、2004年。ISBN 9784062583053。

関連項目

  • 田英夫 - 日本の政治家としては彼ともっとも親しかったとされる。

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  1. テンプレート:Cite news
  2. チャンドラー(1994年)、46ページ。
  3. チャンドラー(1994年)、46ページ。
  4. 山田(2004年)、21ページ。
  5. 山田(2004年)、21ページ。
  6. 山田(2004年)、26ページ。
  7. 山田(2004年)、27-28ページ。
  8. 山田(2004年)、28-29ページ。
  9. 山田(2004年)、30ページ。
  10. 山田(2004年)、44ページ。
  11. 山田(2004年)、98ページ。
  12. 井上・藤下(2001年)、38ページ。
  13. 井上・藤下(2001年)、38ページ。
  14. 井上・藤下(2001年)、37-38ページ、40ページ。
  15. 井上・藤下(2001年)、43-44ページ。
  16. テンプレート:Cite news
  17. テンプレート:Cite news
  18. カンボジア:イエン・サリ氏死去 旧ポル・ポト政権幹部 毎日新聞 2013年3月14日閲覧