アナトリー・ルキヤノフ

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アナトリー・イヴァノヴィチ・ルキヤノフАнатолий Иванович Лукьяновアナトーリイ・イヴァーナヴィチュ・ルキヤーナフ1930年5月7日- )は、ソビエト連邦及びロシア連邦政治家法学博士詩人として、アナトリー・オセニェフОсенев)およびドネプロフДнепров)のペンネームを持つ。

来歴・人物

1930年5月7日スモレンスクに生まれる。1941年に父親を独ソ戦で亡くす。苦学しながらも、モスクワ大学法学部に入学する。ミハイル・ゴルバチョフは学生時代友人であった。ソ連共産党に入党し、中央の国家機関などで党官僚の道を歩む。1956年ソ連閣僚会議法律委員会上級コンサルタント。1968年プラハの春」鎮圧後のチェコスロバキアに赴き、チェコスロバキア共産党及びチェコスロバキア青年共産同盟の法律的助言者となる。1969年ソ連最高会議幹部会副部長。1976年ソ連共産党中央委員会に勤務する。1981年ソ連共産党中央監査委員に選出される。1985年ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任すると、書記長官房とも呼べる総務部長の要職に就任する。1987年党中央委員会書記兼行政機関部長に就任し、この間監督責任者として、閣僚会議下の行政省庁に影響力を及ぼす。1988年政治局員候補となる。同年ゴルバチョフがソ連最高会議幹部会議長(国家元首)を兼摂すると、補佐役として第一副議長に就任。更に、人民代議員大会が新設されると最高会議は、常設機関として設置され、第一副議長に就任。1990年ゴルバチョフが大統領に就任し、後任の最高会議議長となり、最高会議の議事運営に当たってきた。1989年昭和天皇大喪の礼と、1990年今上天皇即位の礼に訪日し、それぞれソ連代表として参列している。

ゴルバチョフの学友として、また、腹心の部下として、極めて親しい関係にあると見なされていたが、ボリス・エリツィンは、著書『告白』の中で、「ひどく短気で怒りっぽくなってきた」とその人格の変化ないし二重性を指摘していた。ルキヤノフ本人も自己分析の中で「政治家としての自分と、法律家としての自分、そして詩人としての自分がいる」と語っているが、ルキヤノフは、ゴルバチョフに近い中道派であると見られていたが、一方では、ソ連の国家体制に関しては、絶対的な信念に近いものを持っていた。このため、新連邦条約をめぐり、ゴルバチョフが改革派に舵を切ると、ルキヤノフは保守派に接近し、結果的に1991年ソ連8月クーデター事件の黒幕となる。慎重なルキヤノフは、国家非常事態委員会に名を連ねていなかったが、クーデターの失敗により捜査が彼の身辺にも及び、8月末逮捕・収監された。

1992年12月に恩赦により釈放されたルキヤノフは、翌1993年ソ連共産党の後身であるロシア連邦共産党に入党し、党中央委員会幹部会員に選出される。1993年12月の連邦議会選挙で共産党からスモレンスク州小選挙区で立候補し、ロシア連邦議会下院(ドゥーマ)代議員に当選し、政治的に復権を果たした。1995年12月ロシア共産党推薦で再選を果たす。当選後は院内会派ロシア連邦共産党に所属し、1996年には党首ゲンナジー・ジュガーノフの顧問になった。1999年の選挙でも再選されたが、2003年選挙には出馬せず、ロシアの石油企業であるペトロサービス社の取締役になった。現在、ルキアノフはロシア共産党中央諮問委員会の委員長、及びロシア作家同盟のメンバーとなっている。

先代:
ミハイル・ゴルバチョフ
ソ連最高会議幹部会議長
1990年 - 1991年
次代:
(廃止)

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