アクティウムの海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | アクティウムの海戦
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | ファイル:Castro Battle of Actium.jpg
Lorenzo A.Castro『アクティウム海戦』
戦争ローマ内戦
年月日紀元前31年9月2日
場所イオニア海・アクティウム沖
結果オクタウィアヌス派の勝利
交戦勢力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | オクタウィアヌス派 プトレマイオス朝
アントニウス派
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ マルクス・アントニウス
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 軍船 400隻
軍団兵 16,000
弓兵 3,000
軍船 230隻
軍団兵 20,000
弓兵 2,000
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 損害
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 戦死 2,500 戦死 5,000
撃沈・拿捕 200隻
テンプレート:Tnavbar

アクティウムの海戦(アクティウムのかいせん、ラテン語:Actiaca pugna)は、紀元前31年9月にオクタウィアヌス支持派とプトレマイオス朝及びマルクス・アントニウス支持派連合軍の間で行われた海戦である。海戦の名は戦場がイオニア海アクティウム(現ギリシャ共和国プンタ)沖であったことによる。

概略

グナエウス・ポンペイウスの子セクストゥス・ポンペイウスが処刑され、第二回三頭政治の立役者の1人で、最高神祇官でもあったマルクス・アエミリウス・レピドゥスが失脚したことにより、ローマの政争はアントニウスとオクタウィアヌスの対立へと移った。オクタウィアヌスの姉オクタウィアと離別し、ローマとは疎遠になっていたアントニウスはプトレマイオス朝エジプトクレオパトラ7世と結び、東方専制君主の立場でオクタウィアヌスに挑もうとした。それに対しオクタウィアヌスは紀元前32年親戚関係を考慮し、アントニウスではなくクレオパトラに宣戦布告した。

アントニウスは総司令部をペロポンネソス半島沿岸のパトラに置き、艦隊をアンブラキア湾en)へと集結。一方でマルクス・ウィプサニウス・アグリッパはアンブラキア湾内を封鎖、アントニウス軍の動きを封じ込めると共に補給路の遮断を狙った。翌年の前31年9月2日、アクティウム岬沖で両軍が500隻以上の艦船を投じて決戦が行われた。

兵員の数ではアントニウス・クレオパトラ連合軍が上回っていたが、両軍が少し交戦した時点でクレオパトラの艦隊が戦線を離脱し、アントニウスはこれを追って撤退したため、指揮官を失ったアントニウス軍は陸海ともに総崩れとなって潰走、オクタウィアヌスの勝利となった。

アクティウム海戦の敗北によって、アントニウスに味方していたユダヤヘロデらも離反してオクタウィアヌス側へ転向した。アントニウスはエジプトに帰還するクレオパトラの船を追った。オクタウィアヌス軍から、部下を置き去りにし女を追って戦場を後にしたと嘲笑されたアントニウスは、エジプトの首都アレクサンドリアへと逃亡した。アントニウスはクレオパトラが自殺したとの報を聞き、自らも自刃した。クレオパトラ自殺は誤報であったので、アントニウスはクレオパトラの命令で彼女のもとに連れて行かれ、彼女の腕のなかで息絶えたとされる。クレオパトラもオクタウィアヌスに屈することを拒んで自殺した。コブラに身体を噛ませての死だったと伝わっている。

オクタウィアヌスは、これにより内乱の一世紀に終止符を打ち、地中海世界の統一も果たして、みずからはプリンケプスとして帝政への道をひらいた。

関連項目

外部リンク