魏志倭人伝
テンプレート:基礎情報 書籍 魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称[1]。当時、日本列島にいた民族・住民の倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれている。著者は西晋の陳寿で、3世紀末(280年(呉の滅亡)-297年(陳寿の没年)の間)に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた[2]。
目次
概要
『三国志』の中に「倭人伝」という独立した列伝が存在したわけではなく[3]、「東夷伝」の中に倭及び倭人の記述がある[4]。従って倭人に関する条のみならず、東夷伝のすべてを通読しなければ意味がないという考え方[5]もある。さらに、『三国志』の研究者である渡邉義浩は「『三国志』の著者であるテンプレート:ルビ(二三三~二九七年)の世界観や政治状況は、約三十七万字に及ぶ『三国志』(それに付けられているテンプレート:ルビ〔三七二~四五一年〕の注は、本文に匹敵する約三十六万字)のすべてに目を通すだけではなく、世界観を形成しているテンプレート:ルビのテンプレート:ルビに通じなければ分からない」と述べている[6]。
中国の正史中で、はじめて日本に関するまとまった記事が書かれている。『後漢書』東夷伝のほうが扱う時代は古いが、『三国志』魏志倭人伝のほうが先に書かれた。なお講談社学術文庫『倭国伝』では『後漢書』を先に収録している[7]。
当時の倭(後の日本)に、女王の都する邪馬台国(邪馬壹国[8])を中心とした国が存在し、また女王に属さない国も存在していたことが記されており、その位置・官名、生活様式についての記述が見られる。また、本書には当時の倭人の風習や動植物の様子が記述されていて、3世紀の日本を知る史料となっている。
しかし、必ずしも当時の日本の状況を正確に伝えているとは限らないこと[9]、テンプレート:要出典範囲記述がなされていることから、邪馬台国に関する論争[10]の原因になっている。 また一方で、岡田英弘など『魏志倭人伝』の史料としての価値に疑念を投げかける研究者もいる。岡田は位置関係や里程にズレが大きく信頼性に欠ける点[11]を根拠として挙げている。渡邉義浩は『魏志倭人伝』には「卑弥呼が使者を派遣した当時のテンプレート:ルビテンプレート:ルビの内政・外交や史家の世界観に起因する、多くの偏向(テンプレート:ルビんだ記述)が含まれている」と指摘している[6]。
版本
現存する数種の版本のうち、清の時代の19世紀の影印本「百衲本」(南宋期の版本の影印)が最も善本とされる[12]。活字本としては現在の中国で諸本を校訂し、句読点を付した「中華書局本」が(初版1959年、北京)、日本でも入手可能である。また、返り点をつけたものとして、講談社学術文庫『倭国伝』テンプレート:Harvがある。
「倭人伝」は、影印本の写真版を見れば段落もなく書かれているが、中華書局版と講談社学術文庫版では6段落に分けられている。内容的には、大きく3段落に分けて理解されて[13]いる。
倭と魏の関係
卑弥呼と壹與
元々は男子を王として70 - 80年を経たが、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起こった(いわゆる「倭国大乱」と考えられている)。そこで、卑弥呼と言う一人の少女を女王に共立することによってようやく混乱を鎮めた。
卑弥呼は鬼道を祭祀して人心を惑わし、既に高齢で夫は持たず、弟が国の支配を補佐した。卑弥呼は1000人の侍女に囲われ宮室や楼観で起居し、めぐらされた城や柵、多数の兵士に守られていた。王位に就いて以来人と会うことはなく、一人の男子が飲食の世話や取次ぎをしていた。
卑弥呼は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じて魏に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられた。正始8年(247年)には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。「魏志倭人伝」の記述によれば朝鮮半島の国々とも使者を交換していた。
正始8年(247年)頃に卑弥呼が死去すると大きな墳墓がつくられ、100人が殉葬された。その後男王が立てられるが人々はこれに服さず内乱となり1000余人が死んだ。そのため、卑弥呼の親族で13歳の少女の壹與が王に立てられ国は治まった。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壹與を諭しており、壹與もまた魏に使者を送っている。
魏・晋との外交
- 景初2年6月(238年)に女王は大夫の難升米と次使の都市牛利を帯方郡に派遣して天子に拝謁することを願い出た。[14]。帯方太守の劉夏は彼らを都に送り、使者は男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、それに班布2匹2丈を献じた。12月、皇帝はこれを歓び、女王を親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与え、難升米を率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為した。
- 正始元年(240年)に帯方太守弓遵は建中校尉梯儁らを詔書と印綬を持って倭国に派遣し、倭王の位を仮授して下賜品を与えた。
- 正始4年(243年)に女王は再び魏に使者として大夫伊聲耆、掖邪狗らを送り、奴隷と布を献上。皇帝(斉王)は掖邪狗らを率善中郎将と為した。
- 正始6年(245年)、皇帝(斉王)は、帯方郡を通じて難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜するよう詔した。しかし同年からの濊との戦いに続く韓との戦いにおいて、太守弓遵は戦死しているため、実行されていない。
- 正始8年(247年)、新太守の王(斤+頁)が着任する。女王は載斯烏越を使者として派遣して狗奴国との戦いを報告した。太守は塞曹掾史張政らを倭国に派遣したが、この派遣は同年の倭の報告によるものではなく、正始6年の詔によるもの。
- 女王位についた壹與(正始8年の派遣の時点で既に女王が壹與である可能性がある)は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
また、『日本書紀』の「神功紀」に引用される『晋書』起居註に泰始2年(266年)に倭の女王の使者が朝貢したとの記述があり、 魏書陳留王紀によれば、この年、禅譲に先立ち東夷が朝貢したという記事があるので 、この女王は壹與と考えられている。魏に代って成立した晋の皇帝(武帝)に朝貢したものと考えられる。
倭人のその後
3世紀半ばの壹與の朝貢の記録を最後に、5世紀の義熙9年(413年)の倭王讃の朝貢(倭の五王)まで150年近く中国の史書からは倭国に関する記録はなくなる(テンプレート:要出典範囲、テンプレート:要出典範囲が、今日ではそれを確かめる術はない)。この間を埋めるものとして広開土王碑がある、碑には391年に倭が百済、新羅を破り、高句麗の第19代の王である広開土王(好太王)と戦ったとある。テンプレート:要出典範囲。
邪馬台国までの行程と倭国の様子
「魏志倭人伝」によると、倭人は山島に依って国邑とし、漢の頃から大陸への朝貢があり、記述の時点では30箇国が使者を通わせている。
邪馬台国までの国と行程
国名や官名には諸説がある。 テンプレート:Wsの原文の抜粋とその日本語訳を示す。
原文 | 日本語訳 |
---|---|
倭人在帶方東南大海之中、依山㠀爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國。 | 倭人は帯方郡の東南の大海の中に在り、山島に依って国邑とし、漢の頃から大陸への朝貢があり、記述の時点では30箇国が使者を通わせている。 |
從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。 | 帯方郡から倭国に至るには、水行で海岸を循って韓国を経て南へ、東へ、7000余里で〔倭の〕北岸の狗邪韓国(くやかんこく)に到着する。 |
始度一海千餘里、至對馬國、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶㠀、方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸。無良田、食海物自活、乗船南北市糴。 | 始めて海を1000余里渡ると、対馬国に至る。大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。絶島で400余里四方の広さ。1000余戸が有る。山は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北岸の市へいく。 |
又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。 | また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国に至る。官は対馬国と同じ。300余里四方。竹、木、草むら、林が多い。3000許(ばか)りの家が有る。田畑は有るが田を耕すが食糧には足りず、南北から市へいく。 |
又渡一海千餘里、至末廬國。有四千餘戸、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈没取之。 | また海を1000余里渡ると、末廬国に至る。4000余戸が有り、山海に沿って住む。草木が茂り、前を行く人が見えない。魚やアワビを捕るのを好み、皆が潜る。 |
東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸。丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。 | 東南へ500里陸行すると、伊都国に到着する。長官は爾支(にき)、副官は泄謨觚(せもこ)と柄渠觚(へくこ)。1000余戸が有る。世々、王が居る。皆、女王国に属する。帯方郡の使者の往来では常に駐在する所。 |
東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。 | 東南に100里進むと奴国に至る。長官は兕馬觚(しまこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。2万余戸が有る。 |
東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。 | 東へ100里行くと、不弥国に至る。長官は多模(たも)、副官は卑奴母離(ひなもり)。1000余の家族が有る。 |
南至投馬國、水行二十曰。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。 | 南へ水行20日で、投馬国に至る。長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)である。推計5万戸余。 |
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。 | 南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかくき)、奴佳鞮(なかてい)があり、推計7万余戸。 |
その他の国々
女王国より北方にある、狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国の9箇国の他に、遠くに在って国名だけしか分からない国として斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国[15]があり、女王国はこれら21箇国をテンプレート:要出典範囲していた。テンプレート:要出典範囲連合領域外の国々もあり、特に南の狗奴国の男王卑弥弓呼と不和でテンプレート:要出典範囲にあった。
テンプレート:Wsの原文の抜粋とその日本語訳を示す。
原文 | 日本語訳 |
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自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。 次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、 次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、 次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、 次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。 此女王境界所盡。 | 女王国より北方にある国々は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、其の他の傍国は遠く絶(へだ)たっていて、詳(つまびらか)に得ることができない。斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国。此れが女王の境界が尽きる所である。 |
其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗。不屬女王。 | 其の南には狗奴国がある。男子を王と為し、其の官に狗古智卑狗(くこちひく)が有る。女王に属せず。 |
自郡至女王國、萬二千餘里。 | 帯方郡から女王国に至る、1万2000余里である。 |
倭国の様子
テンプレート:Wsの原文の抜粋とその日本語訳を示す。
原文 | 日本語訳 |
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男子無大小、皆黥面文身。 | 「皆黥面文身」というように男子はみな顔や体に入れ墨し、墨や朱や丹を塗っている。 |
自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。 | 古くから、中国に来た倭の使者はみんな自らを大夫と称している。 |
夏后少康之子、封於會稽、斷髪文身、以避蛟龍之害。今倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。 | 夏(中国の王朝)の王の少康の子が、會稽に封ぜられた時、断髪して入墨をし、蛟(みずち)の害を避けたという。今、倭の漁師も好んで水にもぐって魚や蛤を捕り、身体に入墨をして大魚や水禽を避けていたが、後には飾りになった。 |
諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。 | 入墨は国ごとに異なり、あるいは左に右に、あるいは大に小に、階級によって差が有る。 |
計其道里、當在會稽東冶之東。 | その(倭国の)位置を計ってみると、ちょうど會稽や東冶の東にある。 |
其風俗不淫。男子皆露紒、以木緜頭。其衣橫幅、但結束相連、略無縫。婦人被髪屈紒、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。 | その風俗は淫らではない。男子は皆髷を露わにし、木綿の布を頭に巻いている。その衣服は幅広い布を結び合わせているだけであり、ほとんど縫われていない。婦人は髪に被り物をし後ろで束ねており、衣服は単衣(一重)のように作られ、中央に孔をあけ、貫頭衣である。 |
種禾稻・紵麻、蠶桑緝績、出細紵・縑・緜。 | 稲、紵麻(からむし)を植えている。桑と蚕を育てており、糸を紡いで上質の絹織物を作っている。 |
其地無牛馬虎豹羊鵲。 | 牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。 |
兵用矛・楯・木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。所有無與儋耳・朱崖同。 | 兵器は矛・盾・木弓を用いる。木弓は下が短く、上が長くなっている。矢は竹であり、矢先には鉄や骨の鏃(やじり)が付いている。 |
倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。 | 土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。みな、裸足である。 |
有屋室、父母兄弟臥息異處。以朱丹塗其身體、如中國用粉也。食飲用籩豆、手食。 | 家屋があり、寝床は父母兄弟は別である。身体に朱丹を塗っており、あたかも中国で用いる白粉のようである。飲食は高坏(たかつき)を用いて、手づかみで食べる。 |
其死、有棺無槨、封土作冢。始死停喪十餘曰。當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、擧家詣水中澡浴、以如練沐。 | 人が死ぬと10日あまり、哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。 |
其行來渡海詣中國、恒使一人、不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人。名之爲持衰。若行者吉善、共顧其生口財物。若有疾病、遭暴害、便欲殺之、謂其持衰不謹。 | 倭の者が船で海を渡る時は持衰(じさい)が選ばれる。持衰は人と接せず、虱は取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。 |
出真珠・青玉。其山有丹、其木有柟・杼・豫樟・楺・櫪・投橿・烏號・楓香、其竹篠・簳・桃支。有薑・橘・椒・蘘荷、不知以爲滋味。有獮猴・黒雉。 | 真珠と青玉が産出する。倭の山には丹があり、倭の木には柟(だん、おそらくはタブノキ)、杼(ちょ、ドングリの木またはトチ)、予樟(よしょう、クスノキ)・楺(じゅう、ボケあるいはクサボケ)・櫪(れき、クヌギ)・投(とう、不明)・橿(きょう、カシ)・烏号(うごう、クワ)・楓香(ふうこう、カエデ)。竹は、篠(じょう)・簳(かん)・桃支(とうし)がある。薑(きょう、ショウガ)・橘(きつ、タチバナ)・椒(しょう、サンショウ)・蘘何(じょうか、ミョウガ)があるが、美味しいのを知らない。また、猿、雉(きじ)もいる。 |
其俗舉事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶。先告所卜、其辭如令龜法、視火坼占兆。 | 特別なことをするときは骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う卜(ぼく)を行う。まず占うところを告げ、その解釈は令亀の法のように、火で焼けて出来る割れ目を見て、兆しを占う。 |
其會同坐起、父子男女無別。人性嗜酒。見大人所敬、但搏手以當脆拝。其人壽考、或百年、或八九十年。 | 集会での振る舞いには、父子・男女の区別がない。人々は酒が好きである。敬意を示す作法は、拍手を打って、うずくまり、拝む。人は長命であり、百歳や九十、八十歳の者もいる。 |
其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。 | 身分の高い者は4、5人の妻を持ち、身分の低い者でも2、3人の妻を持つものがいる。 |
婦人不淫、不妒忌。 | 女は慎み深く嫉妬しない。 |
不盗竊、少諍訟。 | 盗みはなく、訴訟も少ない。 |
其犯法、輕者没其妻子、重者滅其門戸及宗族。 | 法を犯す者は軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。 |
尊卑各有差序、足相臣服。 | 宗族には尊卑の序列があり、上のもののいいつけはよく守られる。 |
邪馬台国論争
倭国への道程を文字どおりに距離を測ると日本列島を飛び越えて太平洋の海の上になってしまうためテンプレート:Sfn、邪馬台国の位置や道程の比定は決定的な説がない。位置についての有力なものに畿内説と九州説がある。道程についても「連続説」と「放射説」がある(邪馬台国#位置に関する論争を参照)。
卑弥呼に関する記述から、テンプレート:要出典範囲。一方で、テンプレート:要出典範囲テンプレート:要出典範囲。テンプレート:要出典範囲テンプレート:誰が、卑弥呼以前は男王が立ち、卑弥呼の死後もテンプレート:要出典範囲男王が立ったと記述されていることから、テンプレート:要出典範囲。
「魏志倭人伝」と『後漢書』倭伝との関係
范曄の『後漢書』「東夷伝」に、倭についての記述がある。 その内容は「魏志倭人伝」と共通点がある。したがってテンプレート:要出典範囲。しかし『後漢書』倭伝には「魏志倭人伝」には年代が特定されていない「桓霊間倭國大亂」等の記事もある。テンプレート:要出典範囲。
脚注
参考文献
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- テンプレート:Cite book - 注記:附録に原文・参考原文・参考文献あり。
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関連文献
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- テンプレート:Cite book - 注記:テンプレート:Harvtxtの復刊。
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関連項目
- 一支国(いきこく)
- 伊都国(いとこく)
- 壱与(いよ)
- 黒歯国(こくしこく)
- 台与(とよ)
- 対馬国(つしまこく)
- 奴国(なこく)
- 卑弥呼(ひみこ)
- 末盧国(まつらこく)
- 邪馬台国(やまたいこく)
- 九州王朝説#邪馬壹国
- 「邪馬台国」はなかった
- 倭国大乱
- 倭・倭人関連の中国文献
- 倭・倭人関連の朝鮮文献
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