本山氏
本山氏(もとやまし)は土佐国の豪族。土佐七雄の一つに数えられる。
起源
本山氏が、土佐国長岡郡本山郷へ入部したのは、平安時代末期と考えられている。土佐物語には「八木伊典といふものが、何の頃にか、本山に来たりて居住す。其の子養明、其の子茂宗まで三代、本姓を改めて本山と号す。是は清和源氏吉良氏の庶流と云う」とある。また『南路志』にも「本山氏は清和源氏吉良氏の庶流八木伊典、初めて当国に来、城を築云々」とあり、源氏との関係が指摘されてもいる[1]。
なお本貫地は、『土佐物語』巻六には「国中第一の要害なり」と記されているほど難攻不落と目されたが、その所領の大部分は本山を中心とした山間部で、経済的には不利な土地柄だった。それでも土佐七豪族の一つとして勢威を誇り、最盛期には土佐西部の国司一条氏を別格としつつも、土佐一番の大名とも呼ばれるまでになる。
戦国時代
本山に居を構えた本山氏は阿波小笠原氏と争うなどして本山の支配権を確立し、周辺豪族とも和を結ぶなどして基盤を着々と固めていく。
永正5年(1508年)、本山氏が首謀者となって吉良氏や山田氏と共同して長宗我部兼序を討ち滅ぼした(諸説あり、最近の研究では長宗我部氏は吸江庵の寺領問題で天竺氏に滅ぼされたとの説もある)。これにより本山氏は土佐国内で最も有力な豪族となる。1530年頃、土佐の守護領国制が崩壊した。経済的に有利な基盤を持っていなかった本山氏はここぞとばかりに土佐中央平野部に南下を始め、本山茂宗の時代には朝倉城を居城として土佐中央部を支配し、土佐七豪族のひとつ吉良氏を攻め滅ぼすと、嫡男本山茂辰は吉良姓を名乗る。また土佐国司一条氏が伊予の西園寺氏と争っている間に一条氏に敵対。諸将の城を攻めるなど、茂宗の頃には土佐豪族の中でも飛びぬけた存在となる。
しかし兼序の遺児長宗我部国親は、岡豊城復帰後に本山氏に服従の姿勢を見せつつ力を蓄え、茂宗亡き後反攻を始める。本山氏は、国親が吉田孝頼を岡豊に迎えたときから国親の体制を気にかけていたが、このままでは土佐が戦乱のちまたとなると察した一条氏の勧めで、国親の娘を嫡男本山茂辰の正室に迎えた。ひとまず二氏の間で小康を保つが、本山氏は、幾度も長宗我部軍と一進一退の攻防を繰り返しつつも、徐々に勢力を削がれていく。
1560年の長浜の戦いで、茂宗の後を継いだ茂辰が敗れ土佐平野部の支配権を失うことになる。茂辰は朝倉城の東、神田城に入り、土佐平原の要である朝倉城を奪取しようとする長宗我部家の寄せ手を幾度も撃退するも、諸豪族・家臣団の離反が始まり守りきれなくなると、火を放って元々の本拠本山城に撤退する。病死した茂辰の後を継いだ本山貞茂は本山城も捨て、土佐の奥地、叔父本山茂定の守る瓜生野城に立て籠り抗戦するも、長宗我部元親の圧迫に抗しきれず降伏する。これにより戦国大名本山氏は実質的に滅亡した。
降伏後、貞茂は長宗我部元親の甥(姉の子)にあたることもあるのかその才を認められたのか、親茂の名を与えられるなど元親の偏奇を受けて長宗我部家の一門衆に加えられ、嫡男長宗我部信親の家老として仕えた。親茂は後年の九州征伐の際に、戸次川の戦いで信親と共に戦死した。
江戸時代
長宗我部氏の歿落後、本山佐渡守茂定の子孫から出た本山喜左衛門が1614年(慶長19年)山内豊前守へ仕えて以降は、本山氏は土佐藩の上士として優遇され、明治まで家名を永らえた。幕末期の直系の子孫が本山団蔵である。また、江戸初期に分流した本山家の子孫が土佐藩錦旗伝奏役の本山茂任である。また、桂浜の坂本龍馬像や高知城の板垣退助像を製作した彫刻家の本山白雲は、戦国時代に分流した古い傍系の子孫である。
補註
本山氏歴代
本山氏の武将
- 本山茂慶(内記)
- 本山茂直(又四郎)
- 本山采女
- 大窪美作
- 大窪勘十郎
- 河村兵庫助(別名、桑川久助)
- 河村四郎左衛門
- 中島新介
- 吉井修理
- 水口次郎左衛門
- 本山左馬丞
- 長安総
- 長左近左衛門尉
- 宇賀平兵衛
- 神森出雲
- 大黒親周
- 大高坂経之
- 大藪紀伊守
- 片岡茂光(片岡直光)
- 秦泉寺掃部
- 本山五郎右衛門(立川五郎右衛門)