チェルニウツィー

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テンプレート:世界の市 チェルニウツィー(ウクライナ語:Чернівці チェルニウツィー)は、ウクライナ西部の都市で、チェルニウツィー州の州都。北ブコヴィナの代表的な都市。かつてユダヤ文化の中心であった。

ドイツ語チェルノヴィッツ(Czernowitz)、ルーマニア語チェルナウツィ(Cernăuţi)、ロシア語チェルノフツィー(Черновцы)、ポーランド語チェルニョフツェ(Czerniowce)と呼ばれる。「黒い町」という意味の名前に由来すると言われる。

標高248m。プルト川の上流に位置し、ブコヴィナの北部にある。リヴィウとともにウクライナ西部の文化の中心地である。

歴史

チェルニウツィー近辺には新石器時代より人が居住していた形跡がある。ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の時代にプルト川左岸に砦が作られ入植が行われた。砦はオークに地元の黒色土を塗り固めて築かれ、その城壁の色から町もChern(黒い町)と呼ばれた。1259年モンゴルによって砦は破壊される。辛うじて破壊を免れた箇所を17世紀に強化・拡張し、要塞が作られた。その一部は現存している。その後、チェルニウツィーへの入植は、より高地で戦略的に有利なプルト川右岸が中心となった。1359年から400年間はモルダヴィア公国の版図であった。やがて、オスマン帝国ポーランド・リトアニア共和国ウクライナ・コサックモスクワ公国などの勢力が伸びてくる。1775年以降、この地方はハプスブルク君主国に領有され、チェルニウツィーはそのブコヴィナ州の州都となった。直後にマクデブルク法が適用された。19世紀から20世紀にかけて、ルーマニアウクライナの民族主義運動の中心となる。

1908年イディッシュ語世界会議(ナータン・ビルンバウム主催)が開かれた。1918年オーストリア=ハンガリー帝国が解体すると、ルーマニア王国に譲渡された。第二次世界大戦の開始後、1940年ソ連によって占領され、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国に編入された。1941年ナチス・ドイツとルーマニア王国の軍勢がチェルニウツィー、及びウクライナ南部に侵攻して占領、1944年にソビエトが奪還すると再びウクライナ・ソビエト社会主義共和国に組み込まれた。1991年にウクライナが独立すると、チェルニウツィーはそのチェルニウツィーの州都となった。

ファイル:University of Chernivtsi.jpg
チェルニウツィー大学。写真は旧ブコビナ・ダルマチア府主教の邸宅(世界遺産)

民族構成

歴史的にチェルニウツィーは様々な民族が行き交ってきたが、1870年から第二次世界大戦末まで、チェルニウツィー最大の民族集団はユダヤ人であった。1930年にルーマニア王国が実施した調査では26.8%がユダヤ人であった。ルーマニア人は23.2%、ドイツ人は20.8%の順であった。ルーマニア人は1950年以降、急激に減少した。ルーマニアに移住するか、シベリアに追放になったためである。大戦前は50,000人以上いたユダヤ人は戦後、3分の1も生き残らなかった。戦後、チェルニウツィーは、ユダヤ人のパレスチナ帰還を支援する「Berihah」の拠点となった。1991年のソビエト崩壊で、市内に残っていたユダヤ人はイスラエルアメリカ合衆国に移住した。2001年のウクライナの国勢調査では、チェルニウツィーの民族構成は、ウクライナ人が79.8%、ロシア人が11.3%となっており、ルーマニア人もユダヤ人も1%台しか占めていない。

関連人物

姉妹都市

外部リンク

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