慎到

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慎到しんとう)は、中国戦国時代法家にも道家にも属する思想家。紀元前4世紀頃の人とされる。稷下の学士の一人。

概要

史記』巻74の伝によれば、の出身で、のち田斉稷下に遊び、黄老道徳の術を学び、12篇を著わしたとされる。出身地がなのに、に仕えるところから見ても、稷下の学者村を気に入ったのか、もしくは招かれたのだろう。

宣王、文学遊説の士を喜ぶ。鄒衍、淳于髠、田駢、接与、慎到、環淵の徒の如きより七十六人、皆、列弟を賜い、上大夫と為す。治めずして議論す。是を以て斉の稷下の学士、復た盛んにして、且に数百人ならんとす。

史記にあるように、稷下の学士の中でも高い地位に就いたのであろう。

彼は、道家法家との折衷的な思想を唱えたとされ、「尚賢」を否定したとされる。

荀子』『韓非子』『呂氏春秋』の伝えるところによれば、法を尊んだとされるが、『荘子』では、法を重視しなかったとされる。

著書として『慎子』42篇があったという(『漢書』「芸文志」)が、現存するものは5篇のみであり(の慎懋賞による校本)、近世以降に偽作された部分も含まれる。

著書の『慎子』は、『漢書』「芸文志」・『隋書』「経籍志」・『旧唐書』「経籍志」ともに、法家に含めているが、史記では道家として区別されている。『隋書』・『旧唐書』では、10巻として著録されている。

慎到の思想は、商鞅の思想や申不害の思想とともに韓非へ継承された。

参考文献

  • 陳舜臣 『中国の歴史2⃣ 大統一時代 漢王朝の光と影』 (東洋印刷/凸版印刷/大口製本印刷1986年)

外部リンク

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