イートン・カレッジ

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イートン・カレッジのチャペル

イートン・カレッジEton College、またはイートン校。正式名称King's College of Our Lady of Eton beside Windsor)は1440年に創設された英国の男子全寮制パブリックスクールロンドン西郊に位置する。王室のある街ウィンザーとはテムズ川を渡って対岸のバークシャーイートンに広大な敷地を持ち、ゴシック様式の校舎や礼拝堂歴史博物館などがある。各界に多くの著名人を輩出し、特に過去19人の首相を出している英国一の名門校。

概要

イートン・カレッジの生徒は13歳から18歳までの少年約1300人ほど(1学年あたり250人ほど)で、学費は年24000ポンドに達する。そのうち試験によって、1学年で14人ほどだけが、学費の10%をまかなう奨学金を受け「王の学徒(King's Scholars)」、一般には「カレッジャー」と呼ばれ、「カレッジ」に住む事ができる。これは元来、学校がイングランド王ヘンリー6世の創設によるもので、当時は1学年14人、全校で70人で、全員が王によって学費を保障されていたことにちなむ。残りの生徒は「ハウス」に住み、「オピダンズ(Oppidans)」と呼ばれる(オピダンズとは「町の子」の意味。ラテン語の「町(オッピドゥム、Oppidum)」にちなみ、かつて70人から徐々に増えていった分の生徒はイートンの対岸のウィンザーの町の下宿から通っていたことによる。後にマナーの教育を徹底させるためハウスという寮に入れることになった)。多くのハウスがあり、それらはハウスに生徒とともに住んでいる教師(寮長)のイニシャルをとって呼ばれている。

イートン・カレッジは、イギリスの各界指導層を構成しているOB(alumni)たちの存在で有名であり、また独自の用語や伝統が数多く残されていることでも知られる。特に黒の燕尾服、チョッキ、ファルスカラー、ピンストライプのズボンにタイという制服は今も変わらず異彩を放っている。現在の制服はジョージ3世の葬儀の際に喪服として着られ、そのまま定着したものである。また、校内で属する集団(Popと呼ばれる指導的立場の生徒集団、Sixth Form Selectと呼ばれる成績優秀者集団など)によってチョッキのボタンやズボンなど細部が異なっているので、どういう集団の一員かが一目で分かる。「王の学徒」は黒いガウンを着ることが要求される。

ほかに特徴的な伝統は、イートン・ウォール・ゲーム(サッカーラグビーが混ざったような球技)とイートン・フィールド・ゲーム(サッカーに似た球技)という二つの球技である。

歴史

1440年ヘンリー6世により創立。もとは70人の貧しい少年たちに無料で学問を施すために設立された。彼らはその後、ケンブリッジ大学キングス・カレッジ(同じくヘンリー6世が1441年に設立した)に進学することとなる。イートン・カレッジ設立の際、学生の半分と校長はウィンチェスター・カレッジ(ウィンチェスター校、1382年創立)から連れてこられ、以後ウィンチェスター・カレッジを手本にイートン・カレッジは成長し、17世紀には人気のある学校となった。

ヘンリー6世は学校に多大な寄付をした。広大な敷地、驚くべき規模の建物、いくつかの聖遺物(おそらく、聖十字架の一部や茨の冠の一部)などである。また、教皇を説得して、生徒にイングランド内で聖母被昇天の祭日に苦行者に贖宥状を発行できる特権を与えさせた。

しかし、ヘンリー6世が1461年エドワード4世によって追放されたあと、エドワード4世は学校に対するすべての寄付を破棄して、資産や聖遺物のほとんどをテムズ川対岸のウィンザー城の聖ジョージ礼拝堂に持ち去った。伝説では、エドワードの愛人であったジェーン・ショアが学校に介入して多くのものを守ったが、王の遺産と教師の数は非常に削られた。

資産も奪われ、しかも壮大な校舎がまだ建設中だったため、財政は極めて厳しくなった。礼拝堂や校舎の計画を縮小しつつ、多くの聖職者や貴族らが寄付をして建築は進められ、その際寄付者の名前が栄誉を称えて校舎のあちこちに付くこととなった。19世紀、測量技師としてイートンに来た建築家ジョン・ショーJr.は生徒の生活改善のためカレッジの新しい一部を建設した。

ナポレオンを破った著名な軍人である初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーが「ワーテルローの戦いはイートン校の運動場で勝ち取られた」と言った話が人口に膾炙している。しかし、ウェルズリーはイートン・カレッジに入学したが、学費不足と不熱心さのため退学しているおり、この台詞は、実際は、英国で生まれたフランス人で、19世紀のリベラルなカトリック指導者、シャルル・ド・モンタランベール伯爵のものである[1] 。もっとも、ウェルズリーがイートン・カレッジで人気があったのは事実で、彼は晩年何度もイートンを訪れている。

出身者

脚注

  1. cf. “C'est ici qu'a été gagné la bataille de Waterloo.” in Charles de Montalembert, De l’Avenir politique de l’Angleterre, Paris, Didier, 1860, p.178.

関連項目

外部リンク

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