アタリショック
アタリショックとは、1982年のアメリカ合衆国においての年末商戦を発端とする家庭用ゲーム機の売上不振「Video game crash of 1983」のことである[1]。
この崩壊にはAtari VCS以外のゲーム機の家庭用ゲーム市場も含まれる。パソコンゲーム市場は含まれない。また欧州や日本など北米以外のゲーム市場は含まれない。
目次
概要
北米における家庭用ゲームの売上高は1982年の時点で約32億ドル(同年末の日本円で約7520億円)に達していたが、1985年にはわずか1億ドル(同年末の日本円で約200億円)にまで減少した。北米の家庭用ゲーム市場は崩壊し、ゲーム機やホビーパソコンを販売していた大手メーカーのいくつかが破産に追い込まれた。ゲーム市場最大手であったアタリ社も崩壊、分割された。この1983年から1985年にかけての北米家庭用ゲーム市場の崩壊をVideo game crash of 1983と呼ぶ。日本ではアタリショックと呼ばれる。
Atari VCSとともに崩壊した北米の家庭用ゲーム市場は、任天堂が1985年に発売し、1987年頃には全米で大ブームとなったNESによって復興された。
1986年当時の任天堂社長の山内博の認識によると、「サードパーティによる低品質ゲームソフト(俗に言う「クソゲー」)の乱発がアタリの市場崩壊を招いた」と言う[2]。これは後世まで業界の共通認識となっており、2010年現在の任天堂社長である岩田聡は、「粗悪なソフトが粗製乱造されたことで、お客さんからの信頼を失ってしまった。」と定義している[3]。ここから転じて、ハードやジャンルに関わらずゲームソフトの供給過剰や粗製濫造により、ユーザーがゲームに対する興味を急速に失い、市場需要および市場規模が急激に縮退する現象を「アタリショックの再来」または単に「アタリショック」と呼ぶこともある。
日本では1996年にNHKで放送された『新・電子立国』で取り上げられて広く知られるようになった。ただし、番組で述べられたように1982年のクリスマス商戦でいきなり市場が崩壊したわけではなく、以下に示すように1982年から1985年にかけて複雑な経過をたどった。なお、「アタリショック」という言葉そのものは米国最大の玩具小売業者トイザらスの副社長だったHoward Moore(発言時は同社役員)の発言として1990年の日経エレクトロニクス紙に初めて登場した[4]。
なお、そもそもアタリショックはなかったとする「アタリショック陰謀論」もある(任天堂が自社のライセンス制度の正当性のために作り出した架空の現象とする説など)。また、アタリショック後に売れ残った大量の不良在庫を埋葬したとされる「ビデオゲームの墓場」も実在しない都市伝説だという説があったが、これは2014年に真実であることが証明された[5]。
事象
1977年にアメリカでアタリ社から発売されたテレビゲーム機「Atari 2600(発売当初は Video Computer System と呼ばれた・以下、一般略称のVCSと表記)」は、それまでゲーム機のハードウェア本体に内蔵されていたゲームソフトのプログラムROMを、カートリッジに収めて外部から供給できるようにし、これが爆発的な人気を博した[1]。だが、同ゲーム機のブームは、発売開始から5年ほどで終わる。
以下に、VCSとその関連商品の市場が辿った状況を、順を追って示す。
VCSの成功
アタリ社は、外部からソフトウェアを入れ替えられるAtari VCSを1977年に発売。当初はさっぱり売れなかったが、1980年よりキラーソフトとして、『スペースインベーダー』、『パックマン』、『テンプレート:仮リンク』などの人気ゲームが、アーケードゲームから数多く移植され、人気に火が付いた。
アタリ社の上層部と対立して独立したゲーム製作者たちが興したアクティビジョン社が1979年に設立され、家庭用ゲーム史上初のサードパーティとしてVCS用のソフトをリリースした。アタリは当初サードパーティを認めず、アクティビジョンに対して販売差し止めの裁判を起こしたが、ロイヤリティを支払うことで1982年に和解。サードパーティ製ソフトの制作が合法であると認められ、それをきっかけに多数のサードパーティーメーカーが参入した。
これにより売り上げはさらに急加速、アタリに対してロイヤリティさえ払えば基本的に何処の誰でも・自由に・アタリ社に関係なく、同機で動作するソフトウェアを開発し、販売する事が可能になった[1]。このため、市場には様々なゲームソフトが流通し、様々なゲームメーカーが勃興、多くの人に楽しまれるゲームソフトを発売していったのである。
それらゲームソフトを再生するためのゲーム機本体の売上も華々しく、出荷台数は最終的に1400万台を超えた。
当時VCSをはじめ、各ハードのプログラム仕様などは公開されていなかったが、各サードパーティはファーストパーティから開発者を引き抜いたり、リバースエンジニアリングなどをしてゲームを開発していた。アタリ自身も競合ゲーム機であるマテル・インテレビジョンの開発者を引き抜いて雇用していたほどである(そのためマテルから産業スパイの疑いで訴えられた)。
粗製濫造の影
しかし1982年頃より、家庭用ゲーム市場の急激な拡大に釣られて、ゲームを作ったこともない他業種のメーカーがVCSのサードパーティとして参入した。それらのメーカーの雇った開発者は、アタリやアクティビジョンなどの開発者とは違ってまともにゲームを作る能力がなく、結果、非常に質の低いソフトまでもが市場に溢れ返った。極端な例として、VCSに参入したクエーカーオーツ(朝食シリアルのメーカー)やピュリナ(ペットフードのメーカー)などが知られる。それらのメーカーは低品質ゲームソフトに大きな宣伝を打ち、家庭用ゲーム市場全体の信用を損なわせた。
この当時、アタリ社は発売されているゲームの内容は一切把握していなかった。またユーザーサイドに立ったゲームレビュー雑誌も発達しておらず[6]、基本的にユーザーは玩具店の店頭で、ゲームソフトのパッケージから、中身の質を推察するしかなかった[7]。
こうして、ユーザーは「買って自宅のVCSに挿し込むまで、本当に面白いかどうか判らない」ような状況にまでなり、ユーザーの購買意欲減退を招いた。
この一方で、ゲームを製造・販売していた弱小の製作会社が勃興と衰退を繰り返し、その激しい新陳代謝の中で「開発企業の倒産」・「在庫の捨て値処分」・「市場にそれらが流れて、ゲームソフト定価ラインを崩壊させる」といった現象を多発させる事となった。つまり、倒産流れのソフトが安価に販売されている隣にあって、新作ソフトの販売価格はいかにも高価に映り、ユーザーの買い控えを招いたのである。
それに加えて、アタリ社が発売したビッグタイトルにも大きな失敗作があった。たとえばアーケードの大人気タイトル『パックマン』のVCS移植版は良い出来ではなかったし、映画『E.T.』を題材としたゲームは非常に評判が悪かった。1982年に発売されたこれらのビッグタイトルはそれなりの売り上げがあったものの、極端な生産過剰であったため、アタリ社にとって大きな損失になっただけでなく、ユーザーの信用を失う結果にもなった[8]。
生産過剰の背景には、1981年10月当時、売上の増大に生産が追いつかないことを問題視していたアタリが、各販売代理店に対し翌年分の一括発注を求めたことがある。代理店は在庫切れを避けるために大量の水増し発注を行い、アタリはそれを鵜呑みにして需要予測を誤ったまま生産を行った。そしていざ1982年になると発注の多くがキャンセルされてしまい、大量の売れ残りを抱える羽目になったのである[9]。
なお、後にアタリショック最大の戦犯にしてクソゲーの象徴ともされることになる『E.T.』は、アタリショック後の1983年9月に14台のトラックに満載されてニューメキシコ州アラモゴルド市の砂漠に埋められた(ビデオゲームの墓場)、と当時ニューヨークタイムズで報道されている[10]。この「ビデオゲームの墓場」はアタリショックとクソゲーの象徴として半ば都市伝説化して後世に語られていたが、2014年4月に当該の地域で「発掘調査」が行われ、実際に『E.T.』が発掘されたことにより実在したことが確認された(詳細については当該項目の記載を参照)
市場飽和・供給過剰
1983年当時、市場にはAtari 2600(VCS)の他にも、Atari 5200、バリー・アストロケード、コレコ・コレコビジョン、コレコジェミニ、エマーソン・アルカディア、フェアチャイルド・チャンネルF、マグナボックス・オデッセイ2、マテル・インテレビジョン、Sears Tele-Games systems、Tandyvision、Vectrexなどのゲーム機が存在しており、さらにOdyssey3やAtari 7800と言った次世代機も発表されていた。各ゲーム機はそれぞれが豊富なゲームソフトのライブラリとサードパーティを抱えていたが、供給過剰の状態であり、ソフトのラインナップを埋め合わせるために粗製の低品質ゲームソフトが乱発された。
Atari VCSに限って言うと、発売から6年目に入ったVCSは北米で普及しきっており、ハード的にはこれ以上シェアを伸ばすのは難しかった。既に市場は飽和していた。
低価格パソコンとの競争
1970年代後半までは、パソコンは主にパソコン専門店において1,000米ドル程度の価格で流通していた。これは2007年時点においては、約2,500米ドルに相当する。しかし1970年代終盤~1980年代初頭には、カラーグラフィックス機能を持ち、サウンド機能も強化された、テレビに接続するタイプのパソコンが登場。このようなパソコンはホームコンピュータと呼ばれ、Atari 400・Atari 800(1979年)が初の製品であったが、すぐに各社から競合機種が登場し、販売競争が始まった。激しい価格競争により低価格化が進み、1982年10月の段階での市場小売価格は、VIC-20が259.95米ドル(当時の日本円で約7万2千円)、コモドール64が595.00米ドル(約16万5千円)、Atari 400・Atari 800がそれぞれ167.95米ドル(約4万7千円)と649.95米ドル(約18万円)、TI-99/4Aが199.95米ドル(約5万5千円)であった[11]。
これらのホームコンピュータは、VCSよりも多くのメモリを搭載し、グラフィックやサウンド機能でもVCSを凌駕していたため、VCSより高度なゲームが実現できた。加えて、ワープロや会計処理といった、ゲーム以外の用途にも使用可能であった。また、これらのパソコンの多くは、ROMカートリッジによるソフトウェア流通を広く用いていたものの、フロッピーディスクやカセットテープのゲームも流通され、これらのゲームはROMカートリッジのゲームに比べてずっと容易にコピーできた。
ホームコンピュータを販売した各社の中でも、コモドール社はゲームユーザーを狙ったマーケッティング戦略を採り、広告において、コモドール64の購入の際に、他のホームコンピュータやゲーム機の下取りを行なうことや、大学進学を目指す子供はゲーム機よりホームコンピュータを購入すべき、と謳った。アタリ社やマテル社の調査では、この広告戦略により、両社の家庭用ゲーム機のイメージや販売に大きなダメージがあったことが確認されている(※下取り戦略は1983年になってからである点には注意)。
また、コモドール社は、他のホームコンピュータ・メーカーとは異なり、ホームコンピュータを、ディスカウント・ストアやデパート、玩具店など、家庭用ゲーム機と同様の流通ルートで販売した。モステクノロジー社という半導体企業を傘下に収め、MOS 6502 CPUを始めとする同社製半導体を数多くコモドール社製ホームコンピュータに採用するという垂直統合戦略により、大胆な低価格化が実現できていた。
市場崩壊
こうして迎えた1982年のクリスマス商戦では、かつてないほどの莫大な数のゲーム・ゲーム機が販売されることとなり、流通・販売側も強気な在庫確保に奔走した。しかし現実は前述のような状態で、1982年度のゲームの市場規模が38億ドルに達するという極めて楽観的な業界の市場予測を満たせる見込みが12月の時点でなくなったため、12月8日、アタリは1982年度の第4半期の業績予測を下方修正。これは投資家に衝撃を与え、当時のアタリ社の親会社であるワーナー・コミュニケーションズまで巻き込み、12月8日から翌12月9日にかけて、株価の大幅下落を誘発している。マテル・コレコなどの競合他社、コモドールなどのホビーパソコンメーカー、小売りのトイザらスなどの関連銘柄も煽りを食って軒並み株価を下げた。
一方、供給過剰の状態であった小売店では、店頭に並べられなくなったゲームを販売元に返品しようとしたが、経営の苦しい販売元にはその対価として小売店に返金するキャッシュがなかった。1982年のクリスマス商戦が終わった直後に、後に『スペランカー』を制作するティム・マーティンが在籍したGames by Apollo社や、クエーカーオーツ傘下として低品質ソフトウェアを乱発したUS Games社を含む、複数の中小メーカーが倒産。
この1982年のクリスマスがアタリショックの発端とされている。ただし1982年度の市場規模は30億ドルを超えるなど市場は依然大きく、この時点ではまだ市場崩壊と言える状態ではなかった。
ともあれ年が明けた1983年には、全米の小売店の多くは不良在庫のゲームソフトを大量に抱えていた。倒産した弱小メーカーのソフトはメーカーに返品することができなかったため、小売店は在庫処分価格でこれらのソフトを販売した。在庫処分ではない正規のソフトの価格もそれにつられて下げざるを得なくなり、アタリも値下げに追随。業界は値下げラッシュに入った。それまで大体30ドル(約7千円)だったソフトの販売価格は一気に5ドル(約1,200円)にまで下がり、2ドル(約480円)で販売されるゲームすら登場した。
1983年に入っても市場は依然活発で、発売タイトルも販売本数もかなり多かったが、1983年6月までには正規価格のソフト市場は大幅に縮小しており、ユーザーは在庫処分価格のソフトを主に買い求めるようになっていた。ゲームが低価格化したことは当初はユーザーに歓迎されたようだが、やがて買ったソフトがどれも低品質という現実に直面する。そして、低品質なこれらのソフトにうんざりしたユーザーの多くは、高価だがクオリティの高いソフトを見直すことはなく、ゲームそのものを止めてしまった。
販売価格が下がったうえにゲームの売り上げが一気に落ち、各ゲームメーカーの経営は一気に悪化したが、特にアタリを直撃した。アタリの経営は1983年の第2四半期には極端に悪化していた。赤字の止まらないアタリのコンシューマ部門は1984年に分割、売却された。買収したのはアタリを崩壊させた一因であるコモドールの創業者、ジャック・トラミエルである。
さらに、影響はアタリ社以外のゲーム関連企業にも広く及び、アタリ社のゲーム機に競合するゲーム機を製造していたマグナボックス社及びコレコ社は、本業がゲームではないこともあり、市場崩壊に巻き込まれるのを恐れてゲーム事業から撤退した。また、大手ゲームソフトメーカーであるImagic社は、新規株式公開を断念せざるを得ず、この何年か後には倒産に追い込まれた。最大手のゲームソフトメーカーであったアクティビジョン社は、パソコンゲーム市場での成功などにより生き残ることに成功したものの、VCSに参入していたほとんどの中小ゲームソフトメーカーは倒産してしまった。
「ゲーム機の時代は終わった」と考えた北米の小売業者も、ゲーム機の取り扱いをやめてしまった。そしてこの後、後述のアメリカ版ファミリーコンピュータ“NES”が発売されるまで、アメリカの家庭用ゲーム市場(※ただし、パソコンゲーム市場はこれに含まない)は最悪の氷河期を迎える。
これが今日言われている「アタリショック=Video game crash of 1983」の概要である。この名称は「ニクソン・ショック」をもじったものである。ただし、アタリショックの評価についてはいまだ定まっていない。
その後
1985年の北米版ファミコンであるNintendo Entertainment System(NES)の発売に当たっては、ゲーム機に抵抗感を持つ小売業者の説得が最大の障壁となった。console(ゲーム機)ではなくEntertainment Systemと命名されたのもそれが理由であり、小売業者の求めに応じてR.O.B.(ファミコンロボット)までバンドルして「ゲーム機ではない」ことを納得させたという[12]。
マテルやコレコのゲーム機にはサードパーティを防止するプロテクトが施してあった一方で、アタリVCSはプロテクトが施されておらず、サードパーティ製の低品質ゲームソフトや低品質な海賊版が野放しになったことは業界の教訓となった。アタリショックの再来を防ぐため、NES以降のハードではハードウェアプロテクトが厳しくなり、カートリッジにロックアウトチップが搭載されるようになった(アタリショック以前に発売された日本のファミコンには搭載されていない)。また著作権的にも厳しく管理されており、NESでは"Seal of Quality"の認可を得ないソフトウェアの販売はできなくなっている。ファミコン(NES)において低品質ゲームソフトを防ぐためとの名目で任天堂の取った強権的なサードパーティ管理方式は、テンゲン(任天堂と裁判沙汰になった)やエレクトロニック・アーツ(メガドライブ支持に回った)といった大手サードパーティとの確執を生んだりしたものの、その後に発売された全てのゲーム機でおおむね踏襲されている。
北米家庭用ゲーム市場は1988年に23億ドル(同年末の日本円で約2875億円)、1989年に50億ドル(同年末の日本円で約7150億円)にまで達し、ようやくアタリショックからの復興が成し遂げられた。
アタリはゲーム機市場でVCSのような人気を得られないまま、アタリ・ジャガーを最後に1996年にゲーム機市場から撤退した。NESの成功以降、北米のゲーム市場は長らく日本製ゲーム機が席巻し、北米のゲーム機市場で人気を得る北米発のゲーム機は2001年のXBOXを待たねばならない。
世界的な影響
欧州へのアタリショックの影響はほとんどなかった。欧州ではZX SpectrumやVIC-20と言ったホビーパソコンのマーケティングが成功していたため、北米でアタリショックが起こった1983年の時点で、既にゲーム機からホビーパソコンへの移行が済んでいたからである。VCS市場の崩壊によって一時的に北米ゲーム市場の覇者となったコモドール64やAmigaと言ったホビーパソコンが、北米でNESによるアタリショックからの復興がなされて役目を終えた1980年代後半以降も、北米ゲーム市場での成功を足掛かりに欧州で「ゲームパソコン」として生きながらえることが出来たのがある意味で間接的な影響である。欧州ではNESのマーケティングが失敗したこともあり、1990年代初めまでホビーパソコンの時代が続き、北米でパソコンとしてのシェアを失ったアタリやコモドールのホビーパソコンが遠い欧州で「ゲームパソコン」として生き永らえる状況が続いた。
日本へのアタリショックの影響もほとんどなかった。当時の日本はVCSはおろかゲーム機自体がまともに普及していなかった。アタリショック後に北米でホビーパソコンのブームが起こった結果、その層の厚さからMSXを筆頭とする日本のパソコンメーカーによる北米ホビーパソコン市場への進出が阻まれたのがある意味で間接的な影響である(ちなみに欧州製ホビーパソコンも北米進出が出来なかった。また日本のホビーパソコンは欧州へは進出しており、シャープ・MZシリーズなどが人気を得ている)。北米でアタリショックが起こっていた1983年には日本でファミコンが発売され、爆発的な人気を得た。ただし当時の任天堂内部ではアタリショックの再来を非常に恐れていたことを当時の任天堂経理部長の今西絋史が証言しており[3]、1986年には確立されるファミコンの厳しいライセンス制度の背景となっている。アタリショックを経験しなかった日本では欧米ほどホビーパソコンは普及しなかったが、パソコン用ゲーム市場ではロールプレイングゲーム、シミュレーションゲーム、テキストアドベンチャーゲームのジャンルを中心に多数の作品が生まれ、それらのソフトがゲーム機に移植されることでゲーム機用ソフトの多様性が高まり、ゲーム機の価値が一層増すことになった。
反論
アタリショックはゲーム市場の質の低下による突然崩壊として捉えられているが、これが正しい評価とはいえないという声は強い。
まず、「Video game crash of 1983」といわれる現象自体が存在しないという指摘がある。実際、VCSの販売台数を見ると、1979年から400万台(1979年)/280万台(1980年)/330万台(1981年)/900万台(1982年)/630万台(1983年)/280万台(1984年)/(1985年以降は減少)、このように、1982年・1983年の2年間が非常に売れており、1982年の年末に突然売れなくなったわけではない(ただし、アタリショックの要因はソフトウェアの販売不振によるものであり、各年度のゲーム機本体の売り上げを見て判断するのは早計である)。また、1982年の爆発的な販売増は、1980年の「スペースインベーダー」の大ヒットによるものであるテンプレート:要出典。
よって、1982年末で売り上げが激減し、家庭用ゲーム市場が崩壊したという事実はない。さらに、1980年代はまだ家庭用ゲーム市場と呼ばれるほどしっかりとした市場はなく、ゲームもまだ玩具市場のいち商品か、もしくはホームコンピュータへと続く商品に過ぎなかった。そのため、玩具産業の中で一時的なブームとしてアタリVCSという商品が売れたに過ぎないと見なす見方もある。
また、ワーナー・コミュニケーションズ社の1982年の株価大暴落にも様々な要因が関係している。
「アタリショックはアメリカの経済学上で重要な事件として捉えられている」という話がしばしば上がるが、アタリショックを単体の事件として経済学上で捉えているということは見られない。1990年代以降で、家庭用ゲーム市場の消費の一例として取り上げられることはあるが、そこでもゲームの質が下がったので崩壊したというような指摘はない。ただし、粗悪品の乱造販売が行なわれていた事は確かであり、結果としてユーザーの不信感を招いていた事がアタリショックに繋がった事は確かである。
アタリショックによって多くのゲームメーカーが倒産してしまった事は、後のゲーム開発技術の停滞を招く事となった。
注意点
ただしここで注意すべきは、アタリ社自身の失敗だったのか、楽観的に旧式なハードウェアを供給し続けるよう指示していたワーナー・コミュニケーションズ側の経営戦略的な失敗だったのかという点である。この辺りに関する評価は資料によりまちまちである。ただ、アタリショックの直接の原因は先に述べたソフトウェア側の質の低下が要因にあり、ハードウェアには直接起因していない。
日本では「アタリショック」と呼ばれ、この呼び名からアタリ社の失敗によるアタリ社の没落と、それに巻き込まれたゲーム関連業者の暴落という印象が強いが、アメリカ国内での同現象は、実質的に同ハードウェアの市場に関係していた多くのゲームメーカーも株価の暴落という形を含んで、同時に苦境に陥っているため、ゲーム業界全体の総合的な現象として扱われている。
追加分析
2007年になって、日本の新聞社系サイトで「当時の状況が(携帯機の売上が据置機を凌駕した)『2006年の日本のゲーム市場の状況』と似ていた」という説が発表された[13]。当時、アメリカでも「ゲーム&ウオッチ」のような電子ゲームが日本同様大ヒットしたものの、「当時のアメリカのゲーム市場では『ゲーム機』と認識されなかった為に売上に含まれなかった」事が前述の「突然崩壊」と錯覚させる一因となったと言うのである。しかし「ゲーム&ウオッチ」はアメリカにおいては商業的に失敗した[14]ため、事実に反する。
関連項目
- Atari VCS
- NES - アタリショックで崩壊した北米家庭用ゲーム市場は任天堂のNESによって復興された。
- マテル・インテレビジョン - Atari VCSの競合機。アタリショックに巻き込まれて市場が崩壊し、マテルは大きな損失を出したが倒産は免れた。
- コレコ・コレコビジョン - Atari VCSの競合機。コレコはアタリショックによる損失は少なかったが、ゲーム事業を見限って本業のおもちゃ事業に打ち込んだ結果、キャベツ畑人形ブームへの過剰投資が原因で倒産した。
- アクティビジョン - アタリショックを乗り切った唯一のサードパーティ。他のサードパーティはすべて倒産した。
出典・脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 テンプレート:Citation
- ↑ "Video Games Gain In Japan, Are Due For Assault On U.S.". The Vindicator. June 20, 1986。海外紙の記事なので元の日本語は不明だが、山内本人の言葉として"Atari collapsed because they gave too much freedom to third-party developers and the market was swamped with rubbish games."とある。
- ↑ 3.0 3.1 社長が訊く「スーパーマリオ25周年」ファミコン発売当時の関係者へのインタビュー。当時の任天堂内部のアタリショックへの恐怖が語られている。
- ↑ ”アタリショック”という言葉を初めて使ったのは米トイザらスの副社長さんです 日経エレクトロニクス1990年9月3日号(no.508)の記事の紹介
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ ゲーム雑誌自体は存在した。特に1982年末から1983年にかけては複数の雑誌が創刊されている(ウェブサイト「Digital Press」を参照)。また、『ビルボード』誌には家庭用ゲームソフトのセールスチャートが掲載されており、ソフト購入の参考にすることができた。
- ↑ テンプレート:Citation
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite journal
- ↑ Atari Parts Are Dumpedニューヨークタイムズ
- ↑ The Freeman PC Museum - PC Timeline
- ↑ "NES". Icons. Season 4. Episode 5010
- ↑ 2006年は「第2のアタリショック」の年だった、NBonline(日経ビジネス オンライン)、2007年4月27日(全文を見るには登録(無料)が必要)
- ↑ デヴィッド・シェフ『ゲーム・オーバー―任天堂帝国を築いた男たち』(角川書店), 篠原慎訳,1993年