丸の内ビルディング
丸の内ビルディング(まるのうちビルディング)は、東京駅にほど近い東京都千代田区丸の内二丁目に所在する、三菱地所保有のオフィスビル。通称丸ビル。大阪駅前にもマルビルというビルがあることが知られているが、これは建物の形が円筒形であることから来ており、両者の関連性はない。
歴史
1923年(大正12年)、桜井小太郎の設計で東京駅前に「丸ノ内ビルヂング」が建てられた(写真で見ると8階建て。地下1階地上9階)。昭和戦前期で最大のビルであり、「東洋一のビル」といわれた。オフィスビルの低層階を一般客に開放し、ショッピングモールなどを展開する形態も、丸ビルが日本においては先駆的に導入したものであり、近代的なイメージから1929年(昭和4年)に発売された歌謡曲『東京行進曲』など多くの歌や、小説の舞台にもなった。当時を代表する巨大な建築物であったことから、建造物の大きさの比較単位として「丸ビル何杯分」などと引用されることもあった(のちの、霞が関ビルや東京ドーム何杯分といったところである)。
親しまれてきた旧丸ビルは日本建築学会が1997年に保存要望書[1]を三菱地所に提出していたものの、三菱地所はこれを聞き入れず1999年(平成11年)に取壊され、2002年(平成14年)「新しい丸ビル」が竣工した(道路をはさんだ向かい側に新丸ノ内ビルヂング=新丸ビルがあったため、まぎらわしい状態であったが、2004年に新丸ビルは取壊され、2007年「新しい新丸ビル(新丸の内ビルディング)」が竣工した)。
丸ビルの建替えにあたっては、隣接する三菱商事ビルとあわせて、都市計画の特定街区制度を活用し、都市計画の指定容積率を超える大規模・高層化を行った。なお、三菱地所はこのほかにも同社が丸の内に所有する6棟のビルを順次建て替えを進めているが、その中の東京ビル、新丸ビル、丸の内パークビルディングは、「大手町・丸の内・有楽町地区」に指定されている都市計画の特例容積率適用区域制度を活用して、東京駅赤レンガ駅舎(3階建てに復原)敷地における未利用分容積率の一部を分割して各敷地に移転してきて、各指定容積率を超える高層大規模建築化を図っている。
年表
- 1890年(明治23年)三菱が丸の内の陸軍省用地を政府から128万円で払い受ける。
- 1894年(明治27年)ジョサイア・コンドル設計により三菱一号館が竣工される。(以後、ビジネス街として開発される)
- 1920年(大正9年)7月、丸ノ内ビルヂングの建設に着工する。(三菱合資会社地所部とフラー社からなる、フラー建築株式会社の施工)
- 1923年(大正12年)2月20日、丸ノ内ビルヂングが竣工する。
- 同年の関東大震災では外壁や構造などに損害を受けたが、丸の内地区のほかの建造物と同様、被災者救援の拠点の一つとなり、その後大改修して1926年利用再開。
- 1937年(昭和12年)12月27日、東京駅との間に地下道が設けられる。
- 1952年(昭和27年)に、道路の向かい側に新丸ノ内ビルヂングが竣工される。(戦前から計画があったが戦争の激化のため中止されていたもの)
- 1995年(平成7年) 三菱地所は耐震性能の低下などを理由に建替えを発表する。
- 1997年(平成9年) 日本建築学会は三菱地所に「丸の内ビルディングの保存に関する要望書」を提出する。
- 1999年(平成11年) 三菱地所は旧丸ビルを取壊して、建替えに着手する。
- 2002年(平成14年)9月6日、地上180m、37階建てビルとなって、全面を改装してオープンする。下層には先代丸ビルの面影を残した超高層ビルになった。名称も「丸ノ内ビルヂング」から「丸の内ビルディング」に改称した。ちなみに、グランドオープン時のキャッチフレーズは「日曜日なのに、東京駅に降りていた。」であった。
- 2002年(平成14年)、第12回 日本建築美術工芸協会主催 AACA賞を受賞(三菱地所)。
催し物
- 丸ビル35コンサート - 毎週日曜日・平日(水・金・土) 丸ビル35階ロビー
入居企業
- 8階:名古屋商科大学大学院
- 10階:フューチャーコマース
- 19-22階:ブルームバーグ
- 23階:アドバンテスト
- 24階:ビザ・インターナショナル
- 25階:日本ガイシ 東京本部
- 27・28階:インテリジェンス
- 29階:イビデン 東京支店
- 33階:アリックスパートナーズ
脚注
- ↑ 丸の内ビルディングの保存に関する要望書 日本建築学会
関連項目
外部リンク
テンプレート:大手町・丸の内・有楽町高層ビル群 テンプレート:Commercial establishment of Mitsubishi Estate Group テンプレート:Asbox