三浦為春
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テンプレート:Portal 三浦 為春(みうら ためはる、天正元年(1573年) - 承応元年7月2日(1652年8月5日))は、日本の安土桃山時代・江戸時代初期の人物。正木頼忠の子。子に三浦為時、水野忠元妻がいる。勝兵衛。長門守。定環。
三浦氏の末裔と称する安房正木氏の一派である勝浦正木氏出身。勝浦正木氏は安房里見氏の家臣で上総の勝浦城を任されていたが、祖父の正木時忠は一時後北条氏に寝返っており、為春の出生時は父の頼忠は人質として後北条氏の本拠である小田原に滞在していた。次男であった父の頼忠は、伯父の正木時通の没後に家督を継ぐため勝浦に帰還したが、為春はそのまま小田原にとどまり、1586年になってから帰還した。
後北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされ滅亡し(小田原征伐)、里見氏も秀吉のため上総を失うと、これ以前に里見氏方に復帰していた勝浦正木氏も失領し、安房に戻った。妹の於万が新たに関東の支配者となった徳川家康の側室として寵愛を受けるようになると、為春は隠居した父に代わり召しだされ、1598年にその家臣となった。その際、正木氏の先祖である三浦姓に復することを許されている。
於万が徳川頼宣(紀州藩祖)と徳川頼房(水戸藩祖)を生むと、為春は頼宣の守役を命じられ、以後側近として活動し、紀州への入部にも随行した。1624年に隠居した。子孫は紀州藩(紀州徳川家)の家老を世襲し、三浦長門守家と呼ばれた。
歌人・文化人としても知られ、『あた物かたり』・『太笑記』などの作品が現存している。また、日蓮宗を信奉したという。