細川真之

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細川 真之(ほそかわ さねゆき、天文7年(1538年) - 天正10年10月8日1582年11月3日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将

通称は、六郎、掃部頭。阿波守護細川持隆の子。母は小少将で、三好長治十河存保長宗我部右近大夫は異父弟にあたる。子に細川隆之細川允之畠山之照畠山高政の養子)がいる[1]

生涯

天文7年(1538年)、阿波守護・細川持隆の子として誕生。

天文22年(1553年)、父・持隆が三好義賢によって殺害されると、その傀儡として擁立された(この時に母・小少将は義賢の妻となった)。義賢死後もその子・長治(真之の異父弟)に傀儡として利用されたため、真之は大いに不満を持ち、天正4年(1578年)12月に勝瑞城を脱出して福良連経を頼って那賀郡仁宇山中に逃れて再起を図った(『昔阿波物語』)。天正6年(1578年)に同じく長治に対して不満を持つ小笠原成助らと手を結び、土佐国長宗我部氏に救援を求めて長治を討った。

これを良しとしない三好越後守矢野国村河村左馬亮らは、三好氏の一門で讃岐国十河氏を継いだ十河存保(真之の異父弟)を擁立し勝瑞城に迎える。天正7年(1579年)には細川方の有力国人だった伊沢頼俊が滅ぼされるなど真之にとって戦況は不利であった。一方で土佐国の長宗我部元親は、はじめ織田信長と同盟を結び阿波三好氏との抗争を優位にすすめてきたが、その後三好氏の後援にまわった織田氏と敵対し、信長の四国侵攻の脅威に晒されていた。ところが、天正10年(1582年)6月に存保の後ろ盾であった織田信長が本能寺の変で横死すると、同年8月に元親は阿波国へ侵攻。十河存保は敗れ、阿波統治の本拠である勝瑞城を失い、讃岐虎丸城に撤退を余儀なくされた(中富川の戦い)。

天正10年(1582年)に死去。『三好記』によると、同年10月に十河存保は再び阿波国へ侵攻し、江村次郎大夫、本木新左衛門、露口兵庫、江邑兵衛進ら数百名の軍勢を遣わして真之の茅ヶ岡城を攻めさせ、敗れた真之は八幡原にて自害し、阿波細川家は滅亡したという。真之の死去は中富川の戦いの敗北により十河存保が讃岐国へ撤退後の日付であること、先の敗戦で回復困難な痛手を負った十河軍が阿波に再侵攻し茅ヶ岡城を攻めたという経緯には疑問が呈されており、また襲撃した江村達を「山林の逆徒」と記していることからそれまで真之に従っていた阿波の国人であったとする説もあり、長宗我部元親による旧勢力の粛清も指摘されている(小笠原成助や新開実綱といった有力者はこの時期に元親により謀殺されている)。

母・小少将

真之の母・小少将は、美女であったといわれる。細川持隆の死後、持隆を滅ぼした三好義賢の妻となり三好長治・十河存保を産み、義賢の死後は三好氏の重臣である篠原自遁篠原長房の弟)の妻となった。さらにその死後は長宗我部元親の側室(子に長宗我部右近大夫)となったという(ただし、別人の可能性が高い)。それも政略結婚ではなく、自身の判断で世を渡り歩いた烈女であったといわれている。

参考資料

  • 山本浩樹『戦争の日本史12 西国の戦国合戦』(2007年、吉川弘文館)
  • 若松和三郎『阿波細川氏の研究』(2013年、戎光祥出版/原著:2000年、私家版『中世阿波細川氏考』)

脚注

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テンプレート:細川氏
  1. こちらより。