黄皓

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テンプレート:三国志の人物

黄 皓(こう こう、215年以前~264年以降)は、中国三国時代宦官蜀漢に仕えた。卑しい身分から出世して、皇帝劉禅の寵愛を受けて権力を掌握し、政治を壟断して蜀漢の滅亡を招いた。

経歴

諸葛亮の死後、劉禅に寵愛され引き立てられた。監視役の董允の存命中は黄門丞という低い役職のままであったが、陳祗が董允の死後に後任となるや、結託して政務を預かるようになり、黄門令に昇進した。陳祗の死後は一気に中常侍・奉車都尉へ昇格し、国の実権を握るようになった。

景耀5年(262年)、姜維を追放して代わりに閻宇を立てようと画策した。この画策は黄皓の独断ではなく、諸葛瞻董厥も同調している。姜維は黄皓の専横を憎み、処刑するよう劉禅に請願したが聞き入れられなかったため、以降成都に帰還出来なくなった。なお、黄皓は『三国志』の著者である陳寿が蜀漢に仕えていた際、彼を憎んで免職にしている。また、甘陵王の劉永は黄皓を憎んでいたため、この事で黄皓から讒訴され、十余年に亘って朝廷への謁見が許されなかった。更に羅憲も黄皓に阿らなかったため、中央から巴東太守に左遷されている。諸葛瞻・董厥・樊建は当時の政務を担っていたが、互いに庇い合うばかりで黄皓の専横を止める事ができず、政治の乱れを矯正できなかった(ただ、樊建は黄皓と親しくする事がなかった)。一方で郤正は、宮廷内の官職に就いてからというもの、彼と屋敷を並べて働く事30年にも亘った(このことから、遅くとも233年の時点で彼が仕官して暫く時間が経過している事が分かる)が、気に入られも憎まれもしなかったため、官位も600石(地方の太守が2000石)を超える事がなく、讒言による被害も免れている。 

また同時期に、蜀での使者の任務を終えて帰った薛珝は、孫休に蜀の政治を問われた際、黄皓の名前を挙げてはいないが、「主は暗愚で過ちに気付かず、臣下は我が身が可愛くて、一向罪を被らない様に努め、朝政でも正言を聞く事が出来無い」と言っている。呉の張悌は宦官が蜀の朝政を恣にしているため、国家の正式な政令が権威を持っていないと断じた。

翌年、が攻撃準備をしていると姜維から援軍要請があったが、黄皓はこれを握り潰した。そのため、蜀は迎撃体制が整わぬまま魏の攻撃を迎える事になった。綿竹で魏軍と戦った諸葛尚は、魏に敗れた際「早く黄皓を斬らなかったがためにこんな事になってしまった。生きていて何になろう」と言って突撃し、戦死した。

蜀滅亡後、魏の鄧艾は成都に入ると黄皓の邪悪・陰険さを聞き知り、逮捕・幽閉して殺害しようとした。しかし黄皓は、鄧艾の側近に手厚く賄賂を贈ったため死を免れた。

三国志演義での扱い

小説『三国志演義』では史実よりかなり早く、諸葛亮の存命中から権力を握った佞臣として登場する。魏から賄賂を貰って姜維を北伐の前線から呼び戻すなど、私腹を肥やす悪辣な人物として描かれる。蜀漢滅亡の直前には、劉禅に巫女の神託による政治を勧めて軍の派遣を阻んだり、江油城の落城を隠蔽したりと、滅亡を招いた最大の元凶にされている。成都を攻略した鄧艾から処刑されそうになるが、その部下に賄賂を渡して一時死を免れる。しかし最後は、司馬昭に五体を斬り刻まれ処刑される事になっている。