ドミニク・ド・ビルパン

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ドミニク・ド・ビルパン(Dominique de Villepin[1]1953年11月14日 - )は、フランス作家外交官弁護士政治家。本名は、Dominique Marie François René Galouzeau de Villepin。ジャック・シラクのもとで、2005年から2007年まで首相を務めた。

呼び名について、貴族称である前置詞 "de" を略し、ビルパン(ヴィルパン)という呼称が使用されることがある[2]

経歴

モロッコ首都ラバトに生まれる。パリ大学パリ政治学院E.N.A.を卒業後の1980年フランス外務省に入省。ワシントンニューデリー勤務を経て、保守派の有力政治家であったジャック・シラクの外交面での側近として頭角をあらわしていった。

1995年、シラクが勝利した大統領選で貢献し、エリゼ宮(大統領府)官房長官に抜擢。1997年にはシラクに国民議会解散を強く進言するが、選挙では与党が大敗。辞表を提出するがシラクは受け入れず、2002年まで務めることになった。

2002年、フランスのラファラン内閣外務大臣に就任。

イラク戦争開戦を強行しようとしたアメリカに対して強く反対した。アメリカの国防長官ドナルド・ラムズフェルドから「(開戦反対の)フランスとドイツ古いヨーロッパ」と皮肉られると、国連安保理で「フランスは古い国だからあえて反対する」と切り返した。その外交姿勢はド・ゴール主義にとても近いといわれている。折から高まっていたイラク反戦の世界的な世論に、ド・ビルパンの国連での演説は強くアピールし、シラクの側近官僚というイメージから、一躍大統領候補として注目されていくようになった。

2004年からラファラン内閣内務大臣

首相

2005年5月31日欧州憲法批准の国民投票で反対が過半数を超えたことによるラファランの首相職辞任を受けてフランスの首相となった。

2005年パリ郊外暴動事件では、暴動鎮圧を計るため暴動のきっかけとなった警察が感電死させたとされる死亡したフランス移民の遺族に対して事件の調査を行うと約束したが、暴動の鎮圧とまで至らなかった。

また2006年には、就業率を上げるために2006年3月に26歳以下の若者を2年以内の雇用なら理由なく解雇できるという青年雇用対策「初期雇用契約」(CPE)を首相・内閣先導で強行制定したが、この法案が逆に若者を怒らせる結果となり、フランス国内の大学での抗議活動が激化、若者が暴徒化し警官隊と衝突した。各企業・自治体・交通機関でもこのCPE法廃止を求めストライキへ突入。3月28日にはフランス国内のほとんどの交通機関でストライキの影響によって交通マヒを起こす事態となった。次期大統領候補としてのライバルでもある与党国民運動連合党首ニコラ・サルコジが融和姿勢を示す中、妥協案を頑なに拒否していたが、4月10日、シラクがCPEの事実上の撤回を決断したことで、政治的に大きなダメージを受けた。追い討ちをかけるように、外相時代にサルコジのスキャンダル(のちに事実無根と判明)を情報機関に探らせていたのではないかとの疑惑(クリアストリーム事件)が持ち上がり、窮地に陥った。

一時期、サルコジと並んで右派勢力の有力なシラク後継者と目されていたが、首相としての任期中2度も大暴動を招いたことから大きく株を下げ、2006年4月の調査では第五共和制下の首相として最低の支持率を記録した[3]。2007年になっても大統領選挙への立候補を表明せず、動向が注目されていたが、3月に入ってサルコジへの支持を明言。みずからの出馬は断念した。

首相退任後

サルコジ政権発足後の2007年7月、前述の「クリアストリーム事件」で起訴され、公判が2009年9月から行われた。同年10月、検察から執行猶予付き禁固1年6ヶ月と罰金4万5000ユーロ(約610万円)を求刑されたが、2010年1月28日に無罪判決が言い渡された[4]

2012年フランス大統領選挙に向けて2010年6月、中道右派の新党「テンプレート:仮リンク」を旗揚げしたものの、立候補に必要な推薦人を集められず出馬を断念した[5]

エピソード

ナポレオン

ナポレオン一世を大変尊敬しており、長大なナポレオン伝『百日天下あるいは犠牲の精神』(Les Cent-Jours ou l'esprit de sacrifice) という本も書いている。そのためナポレオンが完成させた官僚機構を高く評価しており、その官僚機構の象徴である内相に2004年に就任した際は大変な感激だったとのこと。同時にそれは、小さな政府の実現を理想とするニコラ・サルコジとは相容れず、実際に2人は政敵同士だった。

家族

2006年10月、長女のマリージバンシィの新作香水のオーディションを本名を隠して受け、採用されたことで話題となった。ドミニクは娘のモデル業に大反対し、現在も認めていない[6]

脚注

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外部リンク

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 |-style="text-align:center"

|style="width:30%"|先代:
ジャン=ピエール・ラファラン |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon フランス共和国首相
第五共和政第18代:2005 - 2007 |style="width:30%"|次代:
フランソワ・フィヨン

 |-style="text-align:center"

|style="width:30%"|先代:
ニコラ・サルコジ |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon フランス共和国内務大臣
2004 - 2005 |style="width:30%"|次代:
ニコラ・サルコジ

 |-style="text-align:center"

|style="width:30%"|先代:
ユベール・ヴェドリーヌ |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon フランス共和国外務大臣
2002 - 2004 |style="width:30%"|次代:
ミシェル・バルニエ

 |-style="text-align:center"

|style="width:30%"|先代:
ユベール・ヴェドリーヌ |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon フランス共和国官房長官
1995 - 2002 |style="width:30%"|次代:
Philippe Bas (fr)

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テンプレート:フランス第五共和政の首相
  1. テンプレート:IPA-fr(ドミニク・ドゥ・ヴィルパン)
  2. 駐日フランス大使館ホームページ
  3. 24%、LE JOURNAL DU DIMANCHE紙
  4. テンプレート:Cite news
  5. テンプレート:Cite news
  6. 産経新聞2006/10/31夕刊