ウマル・ハイヤーム
ウマル・ハイヤーム (テンプレート:Rtl翻字併記、1048年5月18日? - 1131年12月4日?)は、セルジューク朝期ペルシアの学者・詩人。ニーシャープール(現イラン・ラザヴィー・ホラーサーン州ネイシャーブール)出身。イラン・イスラーム文化の代表者。ウマルの名を現代ペルシア語風に読んでオマル・ハイヤームともいう。全名アブー・ハフス・ウマル・イブン・イブラーヒーム・ハイヤーミー・ニーシャーブーリー。「ハイヤーム」は「天幕造り」の意味であり、ハイヤームの父親の職業が天幕造りであったことから、このように呼ばれている。
数学・天文学に通じた学者としてセルジューク朝のスルターンであるマリク・シャーに招聘され、メルヴの天文台で暦法改正にたずさわり、現在のイラン暦の元となるジャラーリー暦を作成した。33年に8回の閏年を置くもので、グレゴリウス暦よりも正確なものであった。
また、無常観が言葉の端々に表れるペルシア語によるルバーイイ(四行詩)を多数うたい、詩人としても高い評価を得ていた。彼のルバーイイを集めた作品集は『ルバイヤート』として、故地イランのみならず、各国で翻訳され出版されている。
ハイヤームと二人の学友
ハイヤームはニーシャープールの職人の一家出身だと考えられている。幼少期をバルフの町で過ごし、その地で学び、また当時にあってもっとも著名な学匠の一人であったシャイフ・ムハンマド・マンスーリーから個人的な指導を受けた。青年時代には、ホラーサーン地域におけるもっとも偉大な師の一人と見なされていたニーシャープールのイマーム・ムワッファクのもとで研究に勤しんだ。
(伝承では)、イマーム・ムワッファクの許で、同じ頃、二人の優れた学生がまた研究を始めていたのであり、そのうちの一人は、後にセルジューク朝の二人の君主にワズィール(宰相)として仕えたニザーム・アル=ムルクであり、いま一人は暗殺教団の指導者となり隠然たる勢力を築いたハサニ・サッバーフであるという。
卓越した指導者のもとで学んだ者は、誰であっても栄誉と幸運を得ると、当時広く信じられていた。ハイヤームを初めとする三人の学生は友人となり、彼らのうちの誰か一人が幸運に与ることができたならば、互いに幸運を等しく分け合うことを誓約した。ニザーム・アル=ムルクがワズィールとなってのち、ハサニ・サッバーフとウマル・ハイヤームはそれぞれニザーム・アル=ムルクを訪ね、幸運の分け前を求めた。
ハサニ・サッバーフは、帝国の高官の地位を求め、ニザームはハサニの希望を叶えた。しかしハサニの野心は大きく、恩人であるはずのワズィールを失脚させようとして失敗した試みに加担した結果、権力を失った。はるか後年になって、ハサニは暗殺教団(ニザール派)の長となって権力を握った。
ウマル・ハイヤームは誓約の履行において、遙かに控えめであり、高官の地位を求めることなく、生活し、科学を研究し、祈ることのできる場所を求めた。ウマルは、ニーシャープールの財務庫より1200ミスカルの黄金を年金として毎年受け取る権利を得た。
(以上の、ウマルを含む三人の人物の逸話は有名であるが、あくまで伝承であり、史実としては確認されていない)。
数学における業績
ウマル・ハイヤームは、存命中は数学者としても著名であり、放物線と円のあいだの交点によって三次方程式を解く方法を考案したことで広く知られていた。ウマルが試みた解法のアプローチは、彼以前にすでに、古代ギリシアの数学者であり、アレクサンドロス大王の教師で「数学に王道はない」と述べたとも伝わっているテンプレート:仮リンク(紀元前380年-320年)などによって試みられていたが、ハイヤームは方法を発展させて一般化し、三次方程式一般の解法を提示した。更にハイヤームは、二項展開を発見し、エウクレイデスの平行線の理論に対する批判書を著し、これは欧州に伝わり、結果的に非ユークリッド幾何学の発展に寄与した。
天文学での業績
ウマル・ハイヤームは天文学者としても著名であった。1073年にセルジューク朝のスルタンであったマリク・シャーは、当時の様々な優れた科学者たちと共に、天文台を建造して研究するためハイヤームを招聘した。その結果、ウマルは非常な精度で一年の長さを計測し、365.24219858156 日という数字を出したが、この値は小数点六位まで正しかった。ウマル・ハイヤームが計算したこの暦法は、5000年ごとに僅か1日の誤差しかないものであり、これに対し、今日使用されているグレゴリウス暦は、3330年ごとに1日の誤差を持つ暦法である。
ハイヤームはまた、当時のペルシア暦をどのように改正するかの計算を行った。1079年3月15日に、マリク・シャーは、ハイヤームが改正した暦法を施行させた。暦法の改正は、欧州においては、ソシゲネスの修正に基づきユリウス・カイサルが紀元前46年に暦法を改正しており(ユリウス暦)、更にローマ教皇グレゴリウス13世が、テンプレート:仮リンクの修正暦に基づき、1552年2月に改正した暦(グレゴリウス暦)と並ぶ業績であった(グレゴリウス暦は、しかし、グレート・ブリテンにおいては、1751年に至るまでユリウス暦から切り替えられることなく、またロシアにおいては、1918年に至るまで切り替えが行われなかった)。
ウマル・ハイヤームは、ペルシア人やイスラム世界にあって、天文観測の業績で有名であった。彼は天空の星野図を作成したが、今日それは失われている。
ウマル・ハイヤームとイスラム教
ウマル・ハイヤームの哲学は、公的なイスラム教の教義とはかなりに異なるものであった。ウマルが神の存在を信じていたのかどうか明確でないが、しかし彼は、すべての個別の出来事や現象が神的な介在の結果であるという見解には異議を唱えていた。また、最後の審判の日や、死後の報償や懲罰なども信じていなかった。ウマルはむしろ、自然の法則が、生命について観察されるすべての現象を説明するという見解を支持していた。イスラムの宗務当局は、イスラム教に関する彼の異説についての説明を幾たびもウマルに求めた。最終的にウマルは、当局からの追及が激しくなり建前上正統的なイスラーム教徒(ムスリム)を装わざるを得なくなり、マッカへのハッジ(巡礼)を行った。
関連項目
著書
オマル・ハイヤーム 『ルバイヤート』 小川亮作訳 岩波文庫ほか多数